「安心して行きなさい」
マルコ5:25〜34
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 安心して行きなさい」
マルコ5:25〜34 千葉聖子 2003 2/9
今朝共にお読みした箇所は、2つの出来事が平行して書かれてある所です。
危篤状態であったヤイロの娘の所へ、主イエスの一行と大勢の群衆が向かう途中、12年間も出血が止まらない病気の女性がやって来たのです。
この女性は、おそらく子宮からの出血が止まらない婦人病であったと思われます。律法では、この病気は汚れているとされ、またこの女性に触れた者も汚れているとされていました。ですから、彼女は人々から、差別、排斥され、近所付き合いもなかったのです。
この女性は、肉体的な苦しみと、社会から疎外されるという精神的な苦しみと、2重の苦悩を負っていたのでした。
26節を見ますと「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ひどい話です。
当時の医療というものは、病気を悪霊の働きで起こると考えておりました。呪文やまじないによって、悪魔払いをする事を治療と考えていたのです。彼女は病気の苦しみから逃れる為に、その様な医者達に全財産を使い果たしてしまったのです。
初任地の加古川教会で、新興宗教に行っておられた方がおられました。自分の娘が難病にかかり、命がもう危ないという時に、「あと百万円、献金をしたら治ります」と言われ、親戚中借金に回っても断られ、サラ金にまで行こうとした時、家族や親戚に止められやっと止めたそうです。そうしている間に、その娘さんは亡くなってしまったのです。
この後、その方は教会に導かれ信仰を持たれました。献金をしたから治る、という事は絶対にありません。人の弱さにつけ込んだ、いかがわしいやり方です。この様なやり方に、憤りを感じます。
この女性も、同じ様な手口でお金を蝕まれてしまったのだろうと思います。しかも、良くなる所かいっそう悪くなってしまったのです。
出血が止まらないというのは、女性にとって大変つらい事です。それが12年間も続いて、人が考え得る治療は、全てやり尽くしても治らなかったのです。この女性は、何の拠り所もなくなって、絶望の淵に落とされた様な毎日を送っていたのです。
そんな時、病気を癒したり悪霊を追い出したりしている、イエスという人がこの町を通られるという、うわさを聞いたのです。彼女にとっては、一縷の望みをそこに感じたに違いありません。
「このお方なら、私の病気を治してくれるに違いない。もうこのお方しかいない」という切実な思いで家を出たに違いありません。何故なら、外に出るという事はこの女性にとって勇気のいる事だったからです。
彼女は汚れていると言われて来たので、堂々と主イエスの前には出られず、群衆に紛れ込んで、恐る恐る手を伸ばして主イエスの衣に触ったのです。
28節に「この方の服にでも触れればいやしていただける、と思ったからである」とある様に、藁をもすがる思いで、主イエスの衣に触ったのです。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」と29節にあります。病気が癒された事が彼女に分かった、体が感じたのでした。
この女性は、そのまま群衆に紛れて身を隠していました。しかし、主イエスは御自分の内から、力が出て行った事に気づいて振り返ったのです。
主イエスにとっては、ふいの出来事でした。主イエスは癒そうと思われて、彼女に向き合って癒されたのではなかったのです。
この女性が、主イエスの衣に触れたのと同時に、御自分の意志とは関係なく主イエスの内から力が抜けて行ったのです。それだけ、彼女の求めは切実だったのでした。
主イエスは、12年間も苦しんできたこの女性の苦しみを、見過ごされませんでした。そして、群衆の中で振り返られ、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われたのです。
弟子達は、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と言いました。しかし主イエスは、御自分に触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられたのです。私はここに、主イエスの深い憐れみを感じます。
この女性は、体の癒しを求めていました。しかし主イエスは、御自分の中から力が抜けるのが分かる程、切実な求めを持って衣に触れた、この女性の12年間の苦しみや、人から受けた心の傷を察する事がお出来になったのです。それ故にどうしても「自分の衣に触った人と会わなければいけない」と思われたのでした。
主イエスの何もかもお見通しの上で、真剣に自分を探されるお姿に、この女性は恐くなって進み出てひれ伏したのです。主イエスの前に引き出されたのです。そして、ありのままを話しました。この時、主イエスは、この女性と向き合い、彼女の深い苦しみ悩みを受け留められたのでした。
そして、主イエスは、この女性に「娘よ」と親しみを込めて、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。しかし、この女性の信仰は立派なものではありませんでした。
「多くの人々を癒している、あの主イエスの衣に触ったら、自分も癒されるかも知れない」という、まことに御利益的とも思える未熟な求めで衣に触ったのです。
日本でも、古木や石等が御神体となり神社等に祭られ、触ると御利益があるとされております。その様な信仰と何ら変わりないものだったかも知れません。しかし治りたいという一途な思いを、主イエスは受け留めて下さったのです。
主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、御利益的な求めであったかも知れない、しかし主イエスを求める「切実な求め」を、この女性の「信仰」と見て下さったのです。
私達も、御利益信仰に思える様な未熟な祈りで祈っている事があります。しかし未熟でも主に求めて祈る、その求めを「あなたの信仰」と、主イエスは見て下さり、まず受け留めて下さり、応えて下さるのです。そうした中で、私達の祈りと信仰を御心に叶うものへと成長させて下さるのです。
主イエスは続けて「安心して行きなさい」とおっしゃいました。<安心して>は別な言葉で訳すと<シャローム>という言葉です。それは、何もない平穏無事な日々を送るという事ではなく、試練や苦しみの時はあるが、その中にも神の平安がある「だから安心して行きなさい」と言われたのです。
「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」口語訳では「すっかりなおって、達者でいなさい」と言われました。とても親しみのある言葉です。水戸黄門がドラマの最後に言う様なセリフです。主イエスは祝福の内に彼女を送り出したのです。
この女性は、また自分の生活に戻って行きました。主イエスと共に生きる新しい生活が始まったのです。しかし、新しい生活の中にも、試練や悩み病いがあり、やがてこの女性は死を迎えた事と思います。しかし、その事々の中に主イエスの「安心して、健やかに達者でいなさい」との御言葉が響いてきたに違いありません。そして、平安の内に死を迎えたのだろうと思います。
主イエスは、私達の必死な祈りを聴いて下さるお方です。たとえそれが御利益的な未熟な求めであっても、まず受け留めて下さるのです。そして「安心して、健やかに達者でいなさい」と語って下さるのです。どんな荒波の中を通る時も、この主が共に居て下さり、私達を支えて下さるのです。
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