「愛の香り」
マタイ26:1−2
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
マルコ14:1〜9
14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
14:3 イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 愛の香り」
マルコ14:1-9, 03.2/23
今朝はマルコ14章1〜9節の箇所から、共に神の言に聴いて参ります。主イエスの遺言とも言える、終末と再臨を語り終えられた主の十字架への歩みが、いよいよ始まります。今朝は、”その時、地上で、たった1人主の葬りの備えをした女性の物語”を学んで参ります。
平行記事のマタイによる福音書の26章の1節を見ますと「イエスはこれらの言葉を全て語り終えてから」との一文が,最初に加えて記されております。
福音書において「これらの言葉を語り終えてから」と言う表現は、「山上の説教、神の国=天国についての教え、教会についての教え」等の後に語られた言葉であります。特に此処に於いては「全てを語り終えて」と、「全て」と言う言葉が付け加えられているのです。
これは”主は、この地上で語るべき事を全て語り終えた・語る仕事は完成”し、後は、ご自分が語り終えた言葉を、聴く者達に実現させる為、残る最後の仕事に向かわれる事を意味していた”のです…それが”十字架”であったのです。ゆえにマタイは、「全て語り終えられた」という言葉の直後に、「人の子は十字架につけられるために引き渡される」と言う主の言葉を記したのでした。
マルコ書に戻ります…時は,”過越の祭りの2日前”でした…祭司長や律法学者達は、群衆の騒乱を恐れ、また”聖なる祭り中に、人を殺して手を汚して律法を破る事を避ける為”に、過越の祭りが終わってから、密かに主イエスを捕らえて殺そうと企んだのでした。
しかし、主イエスは、マタイ26:2を見ると、”御自身の口で「私は2日後に十字架に引き渡される」と言わている”のです…”主は御自身の意志で、過ぎ越しの祭りの間に十字架に架かる決意をしておられた”のでした。
”過ぎ越しの祭り”と言うのは、”過ぎし1年間の罪の赦しを求めて、小羊の命を神に献げる儀式が中心”でした。毎年、”民の命の身代わりに犠牲の小羊の命を献げられた”のでした。ユダヤ教では今でも行われております。この時、殺される小羊の絶叫は天をつき、聴いた者の耳から離れないのだそうです。
主イエスは、此処で”神の小羊として1度限りの完全な身代わりの犠牲として御自身の命を献げる決意”を表明されたのです。確かに”十字架”は、”人々の悪意や裏切りによって起きました”…と同時に、”父なる神と子なるキリストのご意志によるものでもあった”のです。
最後のお話の後、一旦エルサレムから退かれた主イエスは、ベタニヤの村に入り、らい病人(ハンセン氏病)シモンの家に宿を取られたのです。主イエスは、このシモンの家を、しばしば宿として用いられていたようです。かつて不治の病であった皮膚病を癒されたシモンと家族は、主をもてなす事を心からの喜びとしていたからでした。
現代の日本でも、差別や偏見は根強い問題として残っております。かつてのイスラエルでの、らい病への偏見は尋常ではありませんでした。らい病にかかった気の毒な人を「神に捨てられた人」と呼び、その痛む心にとどめを刺していたのです。
主イエスは、「人の子は枕する所がない」と言われた程に安住の地を持たない人生を送られ、そして、死を迎えようとしていたこの時も、1人孤独の中で十字架に向っておられたのです。それゆえ主イエスは、孤独を知るシモンを求められたのでした。
おそらく、渦中の人であった主が、「神に捨てられた人」とレッテルを貼られていた、シモンの家に宿をとられた事は、心ない噂を生んだに違いありません。それでも主は、シモンの家を選ばれ、シモンも主イエスを迎えたのです。”愛や慰めは、自分の痛みから隣人の痛みを察する所から生まれる”という事を教えられます。
そのシモンの家に一人の女性が、石膏の壺を持って入って来たのです…この女性はを、ヨハネによる福音書は、主イエスに、弟ラザロを甦らせて頂いた姉のマルタとマリヤの姉妹のマリヤと記します。しかし、マルコによる福音書は名を出さず、”一人の女”として”彼女のした行為だけを浮き立たせている”のです。”主イエスも彼女の名をお呼びなってはおられません”。ただ、14:9「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のした事も記念として語り伝えられるだろう」と彼女の行為を評価されたのです。
マルコ書は、”キリスト者の行為の原動力は、自分の名が賞賛される為でなく、「キリストに喜んで頂きたい」と願う思いである”と語ろうとしているのかも知れません。
では、この一人の女は何をしたのでしょうか?…彼女は、”持って来た、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を壊して、香油の全てを主の頭に注ぎかけた”のでした。
何故こんな行為をしたのでしょうか?…もし、ラザロの姉ならば、弟を助けて頂いた感謝の思いからでしょう。彼女が誰であったにしても、”主イエスへの深い感謝と熱い愛の一切を込めた行為が、石膏の壺をたたき割り主に香油を注いだ”事だった事は伝わって参ります。
しかし、彼女の行動は、そこにいた”人々の目には常軌を逸した行動に映った”のでした…この”ナルドの香油は、死体に塗られるもの”で300デナリオン(300万〜400万円)もする高価なものだったからです。
その香油の凄まじい匂いが立ち込める中、そこにいた人々は憤慨して「どうして、そんな無駄な事をするのか!?そのお金があれば、どれだけ貧しい人々を助ける事が出来たか」と女性を罵ったのです。こうした、もっともな怒りを一斉に受けた、この女は、おそらく立ちすくみ、息が詰まり、時が止まったかの様に感じたと思います。
主イエスは、そんな一人の女を助けるかの様に、6-9節で「するままにさせておきなさい。何故、この人を困らせるのか。私に良い事をしてくれたのだ。貧しい人々は何時もあなた方と一緒にいるから、したい時に良い事をしてやれる。しかし、私は何時も一緒にいるわけではない。この人は、出来る限りの事をした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のした事も記念として語り伝えられるだろう」と言われて、彼女の行為を弁明し守られたのでした。
主イエスは、この、”一人の女”の行為を「私に良い事をしてくれた」と言われました。この「良い事」と言う言葉には、「美しい事」という意味もございます。”本当の愛には、計算や打算が無い”のです。主は,「彼女の行為には、一切の計算や打算も無い、本当に美しいものではないか」と言われたのでした。
確かに彼女の行為は,一見、馬鹿げた浪費です…しかし、”愛や信仰は、時に我を忘れる程の、愚かとも思える程に、出来るだけの事をすると言う行為をも生み出すもの”ではないでしょうか?
時折、「信仰はアヘンだ」という言葉を耳にします。”信仰が盲目的になり、冷静さや、常識を失う事は、信用を失い証にもなりません”ので、冷静さや常識の伴う信仰はアヘンではありません。しかし、”信仰から熱い愛まで失ってしまったなら、主をお慰めした、この一人の女の様に、主と心が通い合う事など出来ないのではないかと思う”のです。
”主イエスに喜んで頂く事を何よりの喜びとする生き方、愚かなまでに、そこに徹して生きない限り、この世で損をしても主に喜んで頂く道を選ぶ事は出来ない”のです。
Tコリント1:18には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達,救われる者には神の力です」とございます…”神が愛する一人子を自分の為に地に送り十字架に架けて下さった”…この意味が分からぬ人々には十字架は愚かに思えるのです…しかし、その”神の痛みこそ自分へ愛だと分かり、自分もお応えして,主を愛そうとする心には力が溢れて来るのです。
”十字架の痛みの愛は、高価なナルドの香油を注ぐ痛みや愚かさの比ではありません”が、”両者は、熱い愛という点で重なり合う”のです。”ナルドの香油と、十字架の血潮は、痛みを伴う熱い愛によって流された愛の香り”でした。
やがて弟子達が十字架の救いに預かり、命がけで、”十字架による救いの福音”を宣べ伝える者となって、この事を語った時、”自分達を恥じながらも、唯1人、主に葬りの備えをした、この女性の行為を、立ち込めていた愛の香りと共に思い出し感謝をした”のでした。この朝、私共も、「教会の頭なるキリストを、愚かと思う迄に、熱く愛する群れとして下さい」と”聖霊に求めるなら、土居教会は愛の香りに満た群れと成って行く”のです。
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