「目を覚ましていなさい」
マルコ13:24〜37
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
マタイ24:36−39
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 目を覚ましていなさい
マルコ13:24-37 03.2/16
6年前、テロリストに占拠された、ペル−の日本大使館の人質が、軍隊の突入によって、4ヶ月後に解放されました…その時、テロリストと交渉していたカトリックの大司教が射殺されたテロリスト達に対して涙する姿にいろいろ考えさせられた事を覚えております。
テロリスト達が一瞬油断した隙を狙った特殊部隊の突入でした…あの映像を見ていて一瞬の油断の怖さを教えられました…今朝は、マルコ13章24〜37節の箇所から主イエスが「目を覚ましていなさい」と言われた意味を学んで参ります。
主イエスは十字架の直前である、この13章で、延々と終末(世の終わり)と御自身の再臨について語られました。31節では「天地は滅びる」と主イエスは明言されました。
人は自分の欠点や落ち度を、あからさまに指摘されると、なかなか素直に認められません。それは、”滅び”についても、言える事かも知れません。人は,”滅び”が迫っている事を認めて直視する事が出来ないのです。
それゆえ主イエスは、「”いちじくの木”の枝が柔らかくなって、葉が伸び始めるのを見て、誰もが夏が近づいた事が分かる様に、滅びの日は、旅に出た主人が、突然足音を立てて帰って来るように訪れる」と言われたのです。
この「目を覚ましていなさい」と言うのは、「備えなさい」という事でもございます。ゆえに、この言葉は、「1人でも多くの者達が滅びを悟り、永遠に滅びない主の御言葉に拠り頼む備えをして欲しい」という意味が込められた言葉だったのです。
マタイによる福音書を見ますと、主イエスはノアの箱船をも引き合いに出して、この事を述べておられた事が分かります…マタイ24:36-39「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。
洪水の前、人々はノアが箱船に入る日まで、飲み食い、めとり、嫁いだりして、神を忘れて繁栄を貪っておりました。そんな中、滅びから逃れる為、ノアは箱船を造りました。そして、人々は洪水に襲われ滅んでしまったのです。
ノアはこっそり舟を造ったのではありませんでした。人々の目の前で今のアメリカの巨大な軍艦より少し小さい位の大きな舟を造っていたのです…”目を覚まして、神の審きを見つめつつ箱船を造っていたノアを見ながら、人々は目を覚まさなかった”のでした。
20世紀の世紀末にも、ノストラダムスの預言などによって、世の終わりが騒がれたりしましたが、殆どの人は興味本位に騒いでいただけで、”聖書の語る様な、罪の結果としての滅び”を誰も見つめていなかった様に思います。
”主イエスは、洪水の滅びから救い出したノアの箱船と、永遠の滅びから救う十字架とを重ね合わせて語っておられた”のです。
主は十字架の上で「我が神〜何故、私をお見捨てになるのですか?」と叫ばれました…”神の御心の全てを御存知であった主イエスでさえ、叫ばずにおれなかった程、神の審きによる滅びは恐ろしかった”からです。
歴史上、”主イエスと聖霊だけが、十字架上で、その神の審判の恐ろしさを経験された”のです…しかし、”私共の罪を背負い,私共の身代わりに神の審きを受けられた十字架の贖罪”という、”神の痛みを通して、私共には救いの道が開かれた”のです。
こうして”十字架が、私共を滅びから救う、唯一の箱船に成った”のでした。正に”十字架こそが、神の裁きという滅びの象徴であると共に、救いの箱船でもあった”のです。
28節以下で、主イエスは「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近い事がわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と語られました。
此処の「これらの事=次々と起こる世の終わりの前兆」の事ですが、主は「それらの前兆を見たならば、救いの箱船である人の子(主イエス)が、戸口に近づいている事を悟りなさい」と言われたのです。
「私があなたを救う為、戸口から入ろうとする時、迎える備えをした生活をしていて欲しい」…そうした思いを込めて、主は「目を覚ましていなさい」と言われたのでした。
昔、或る青年から「死の向こうがあるのが分かったので、これからの生き方が違ってくると思う」と言う言葉を聞いた事がありました…”自分が永遠に生きる者とされている”と知り、”主イエスの再臨に備えて生きる生活には、全てが変わる様な変化が生まれて来る”のです。
この様に,”教会は、終末を見つめて、新しい生活に生きる群れ”であると共に、また”終末の兆しを目ざとく見分け、再臨の主を世に紹介する務めを委ねられている群れ”でもあるのです。
マルコ書や他の福音書も揃って「目を覚まして見るべきものを見なさい」と主が言われた事を記しております…にも拘わらず、2〜3日後に、弟子達は見事な迄に失敗するのです。いえ、失敗したからこそ自戒の念を込めて、マタイによる福音書やルカによる福音書でも記したのではないかと思います。
十字架の直前に、ゲツセマネの園で、主イエスが血の汗を流して祈られた出来事が、マルコ14:32−42に記されておりますが、そこで弟子達は眠りこけてしまったのです。そんな弟子達を主は起こされて、「私は悲しみの余り死にそうだ。頼むから、私の為に起きて共に祈っていて欲しい」と切に願われたのです。にも拘わらず、彼等は3度も眠ってしまったのでした。
「何と愚かな」と思います。しかし、36節の「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」という主の言葉を、主イエスは「全ての者に言うのである」と言われたのです。
つまり、「この弟子達の姿こそ、私共、全ての者達の姿である」と言うのです。 確かに、”私共の内には、目を覚まし続けられない弱さがある”かも知れません。しかし、”それでも私共には救われる道がある”のです…”天地が滅びても変わる事のない主の御言葉に拠り頼む道”なのです。
主イエスがゲツセマネの祈りを終えて弟子達の所に戻って来た時、またもや眠りこけている弟子達の姿を見て絶望されなかったのも、”主は、私共が御言葉によって変わって行く事が出来るのを御存知だったから”でした。
”御言葉は、主イエスが私共の為に祈りながら、お語り下さっている神の言”なのです。主イエスは、私共の弱さなど、とうに御存知なのです…そして、”今も、私共の代わりに、神の右の座で、御自身の十字架の血潮を神に呈示されながら「この血の故に、彼等が変わって御言葉に立つ迄、父なる神よ、お赦し下さい。お待ち下さい」と、一瞬たりともまどろむ事無く、執り成し祈って下さっている”のです。
主イエスは、此処で3度も「目を覚ましていなさい」と語られました。しかも、「全ての人に言うのだ」と言われたのです…それは、「何時来るか分からないが、終末と再臨に、あなたも備えなさい…あなたの為に祈る私を見つめる信仰と、神の言に拠り頼む信仰生活をもって、あなたも備えなさい」という事だったのです。
そして、それは,”3度も繰り返された、主イエスの切なる言葉であった事”を心に刻まなければなりません。
私共の教会も、”終末に向かって歩いている群れなのです”。それは、”終末に備えて新しい生活をする”事でもあります…具体的には”私共の為にまどろむ事なく祈って下さる主イエスを、目を覚まして見つめ、滅びる事のない神の言に拠り頼む生活”をする事なのです。そうした”信仰の歩みの伝統を作りあげていく事こそが、主イエスの再臨に教会が備えて行く事”なのです。
”教会が、油断する事なく、その様な備えを持ち続けて行く時、終末の兆しに気づいて、世に再臨される救い主が近くまで来られている事を紹介する”という委ねられた使命を果たす事が出来るのです。
![]()