「一番大切な戒め」

マルコ12:28〜34
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
一番大切な戒め」 マルコ12:28−34、2003、1/5
                                 

 今年、最初の主日礼拝は、マルコ12:28〜34から神の言に聴いて参ります。
先の主イエスとの復活についての論争で敗北したサドカイ派に代わって、逆転勝利を託された1人の律法学者が進み出て「どの戒めが1番大切なのか?」と問いかけて来た所から、今朝の物語は始まります。

それは、膨大な律法にがんじがらめにされてきた当時の人々にとっては切実な問題でした…「覚えきれない、守りきれない律法の中で、1番大切な律法とは何か?」と言う問いだったのです。主イエスは、この質問に答え、最も大切な戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する事と、自分のように隣人を愛する事。この2つに勝る掟は他に無い」と語られたのです(29〜31節)。

 旧約聖書では、この”「神を愛しなさい」との律法は「イスラエルよきけ」という言葉で始まっております”…これは、原語のヘブル語では「シェーマー」という、とても強い命令の言葉です。そして最後は、「この戒めを、目の間に置き、手につけ、家の門と入り口の柱に書き記しなさい」と記して終わるのです。

此処の「目の間に置く」というのは、「何時も目の前にある」と言う事で、「手につける」というのも「手は目につく所」です…「家の門と入り口の柱」は、何時も通る”生活の場”を現しており…これらから,この戒めは、”全生活が、この戒めに覆われる事を求めている”事が分かります。それ故、イスラエルの人々は、毎日、この御言葉を唱え続けたのでした。

「神と隣人を愛する事が最も大切な戒めである」と言う考えは、主イエスと律法学者は同じでありました。そこで主イエスは、「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われたのです。

これは、一見、ほめているような言葉ですが、そうではありません。律法学者は,「神の国に入れる」と言われていないのです…”主は、この律法学者と、同じ意見だと認めただけだった”のです。では何故、主は「神の国に入れる」と言われなかったのでしょうか?

同じ物語を扱っている、マタイによる福音書を見ると、その疑問の答えが見えて参ります。「聖書は、神を試みてはいけない」と語りますが、マタイ書では、この”律法学者の質問を「試み」と記している”のです。

 この「試みる」と言う言葉から、多くの方は、”悪魔による荒野の試み”を思い浮かべられるのではないかと思います…主イエスが公生涯に入られる前、40日40夜、断食祈祷していた時、”主を誘惑した悪魔の試み”です。マタイ書は、”この律法学者の問いを指して、「悪魔の試み」と言っている”のです。

 私には、この律法学者の質問の何処に、主を試みる罠があったのか分かりません…唯1つ言える事は、彼等は、”主イエスが、救い主でない証拠を探そうとしていた”と言う事です。”マタイ書は、この事を指して、この論争を「試み」と記した”のだと思います。

律法学者達は、自分達こそ”知恵ある者”と自負しておりました。確かに、”神に仕える者として、神に対する知識と真面目な生き方は誰にも負けません”でした…しかし、”救い主については何も知らなかった”のです。なのに”救い主は誰か?”と主イエスに尋ねなかったばかりでなく、主が”救い主である事を否定しよう”としていたのです…主は、それを見抜き「あなたは神の国に入れる」と言われなかったのです。

 イエスは更に,次回に学ぶ箇所で次の様に言われるのです…「あなた方はキリスト(救い主)は誰だと思っているか?…何故、あなた方は、救い主をたずねもとめないのか?」と…。”此処で主は、律法を求めても、救い主を求めない律法学者達の最も根本的なズレを指摘された”のでした。

 更に主は言われました。「どうして律法学者達は、メシアはダビデの子だというのか?ダビデ自身が聖霊を受けて、メシアを主と呼んでるではないか?…親が子供を主人と呼ぶのはおかしくないか?」と。

これは、「救い主は、人としてダビデの子として生まれたが、世が創られる以前からいた神である」と言う事でした。主は,律法学者に「あなた達は、救いに預かる為に、最も大切な戒めを聞いては来るが、何故、神である救い主を尋ね求めないのか?」と言われたのです。

 では,律法学者達は,どの様に”救い主を求めれば良かったのでしょうか?”…それは,”救い主を信じる事。そして、力を尽くして主を愛する事”でした。

 更に主イエスは、「神を愛する」という戒めに「人を愛する」という戒めを加えて、1つの戒めにまとめて語られました。何故かと申しますと、”神を愛する”信仰生活は、”隣人を愛する生活に現れるから”でした。

或る先生から「キリスト者の中には、神は愛するが、人には冷たい人がいる」とお聞きした事がございます…寂しい現実でもあります。それゆえ、主は,「キリスト者として、最も大切な生き方である、愛に生きると言う事は、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くさなければ出来ない」と言われたのです。

 マタイ書では、”「神と人を愛しなさい」と命ずる詳しい理由を記します”…「この2つの戒めに律法全体と預言者(永遠の命)とがかかっているから」と。”神と人を愛しているかが、永遠の命に預かる試金石”というのです。

では誰が、永遠の命に預かる事が出来るのでしょうか?…どうしたら良いのでしょうか?

 此処で「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛しなさい」との御言葉に、もう1度、共に聴きたいと思います。
此処にある「自分を愛する様に」との一文を見落としてはなりません…”神を愛する者は、自分を愛する者となるのです。自分を愛する愛を回復する”のです。

主イエスは、「自分を捨てて、神と人を愛しなさい」とは言われませんでした…”人は自分を捨てて他者に尽くす事など出来ない”からです。

 愛に生きる事は、”先ず,自分を愛する事から始まる”のです…本当に自分を愛せる人は幸せな人だと思います。また、”自分を愛する事が出来ない人は、隣人を愛する事も出来ない”のです…先日、ある方とお話をしておりまして、「神様にあって、自分を回復する時、隣人をも愛せるようになる。そうでない時は、愛そうと思っても愛せない」という証を伺いました…確かにそうだと思いました。

 しかし、多くの人々が自分を愛せずにいるのです。その”歪み”が、親子関係や家庭をはじめ、多くの人間関係を歪ませているのです。

 この”自分を愛する愛は、神の愛の中に没頭する所”から生まれて来るのです。神を愛して歩む道は、”時に苦しみや犠牲が伴います。しばしの間、苦しみ呻く事もございます。しかし、それでも、神を信頼し、神を愛する者を、神は御言葉をもって支え、慰め、愛で覆って下さるのです…そこで人は、生き生きと、神と共に生きている自分を発見する”のです。

 イザヤ43:4に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とございます…私自身、神に語って頂いた御言葉で、心の傷が癒され人生の転機を経験した御言葉です。 
 ”自分がどんなに神に愛されているか!を知る中で,人は自分を回復して行く”のです。そして、”そこで自分が好きになる”のです。

 そして、そこから”隣人への愛も生まれる”のです。”神を愛する事なと、自分を愛する事と、隣人を愛する事…この3つの愛は1つに重なる”のです。

 律法学者は、”一番大切な戒め”は知っていました。しかし、肝心な、救いを与える”救い主を求めて、救い主は誰かとイエスに聴かなかった”のです。目の前にいる”救い主イエス・キリストを認めず、否定し、愛さなかった”のです。

 しかし私共が”主イエスを救い主と信じ、主を信頼し、主を愛して、御言葉に聴いて行く時…「こんなに私は主に愛されていたのか!」と、神の愛の大きさを知る者となる”のです。そこで”自分を見捨てる者から、自分を愛する者へとかえられて行く”のです。

そして、”その愛は、隣人への愛ともなって行く”のです…新年最初の主日礼拝で、共に、その様な、愛に生きる者として頂ける様に、愛に生きる群れとなるように祈りましょう