「レプタ2枚の献げ物」

マルコ12:38〜44
12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
レプタ2枚の献げもの」
              マルコ12:38−44、2003.1/12

 今朝は、マルコ12章38〜44節の箇所から、共に御言葉に聴いて参ります。
主イエスにとって、この十字架迄の最後の1週間は孤独の中にありました。何時も主イエスの側にいた弟子達でさえ、主のお心とは大きく隔たって来ており、主のお心を慰める事が出来なかったのです。そして,その主との心の隔りが十字架の主を見捨てる事へとつながって行くのです。

 学生時代、人の言葉に心傷ついて下宿に帰って来た時、何時も遊んであげていた近所の小学生が花瓶に野の花を生けてくれており、とても慰められた思いをした事がありました。ささやかな思いやりが痛む心には響きます。
 
 今朝登場します一人の貧しい”やもめ”(夫を亡くした女性)が献げたレプタ2枚の献げものは、主イエスの孤独なお心をどんなに慰めたか知れません…ある注解者は、この受難週に、本当の意味で主イエスに出会った人は、このやもめ1人だけだったと書いています。

この”やもめ”と主イエスの出会いを注意深く読みますと、やもめは主イエスと話をしていないのです。やもめの献げものについて、主がコメントしただけなのでした。
 しかし、信仰の世界においては、主イエスは、深い所で”やもめ”に会って下さっているのです。直接お褒めの言葉は頂かなくとも、彼女は、主イエスに祝福をもって受け入れられたのです…彼女の心に、主のお心は届いていたに違いないと思います。

 主イエスは、このレプタ2枚の献げ物をした”やもめ”の物語の前に、律法学者達について語られました。マルコ12:38−40「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回る事や、広場で挨拶される事、会堂では上席、宴会では上座に座る事を望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者達は、人一倍厳しい裁きを受ける事になる」
 この言葉は、おそらく、この後に続いて記されている”やもめ”を意識しながら語られたのだろうと思われます。

 律法には、「”やもめ”のような、弱い立場にある人々を守らなければならない」とございます。それゆえ、”やもめ達”は律法学者達に頼ったのです。しかし、彼等は、一見世話をするように見せかけながら、”やもめ”からさえ利益を貪っていたのです。
 律法学者達は、上座に座る事、賞賛される事、人目につく事ばかりを好んで生きる内に、損する仕事を好まない人達となっていたのです。

 神から与えられた立場を私物化し、やもめ達迄も食い物にしている律法学者達を、主は怒り、同時に1人の弱いやもめの生きた信仰について語られたのでした。

 この”やもめ”は、”不遇な境遇の中でも、神を見上げ祈り続けていた人”でした…振り返ると、”その所で、イエスとの出会いが始まっていた”のです。

 ”レプタ”というのは、当時流通していたギリシャの貨幣で一番小さなもので、現代になおすと、”2枚で20円位のもの”であったと思われます。

 このレプタ2枚の献げもの物語は、しばしば、”貧しい者の献げものは、富める者の献げ物よりも、痛みが伴う価値ある献げ物”として語られます…確かに”献げ物の質は大切”です。しかし、果たして本当に、この”レプタ2枚の献げ物の物語”はその事を語っているのでしょうか?

 この”やもめ”の献げ物に対して、主イエスは「この女性は生活費の全てを献げた」と言われたのです…もし、生活費の「全てを献げる」事が、献げ物の質を問うのであれば、誰がそれに応える事が出来るでしょうか?…信仰に建前と本音があってはならない筈です。

 この”やもめ”もそうです、何時も全てを献げていたら、どうやって生きていけば良いのでしょうか?ですから、その様な視点から、この物語を読むのは、どこか方向がずれていると思うのです。

更に、もう1つ,この物語を読む時、ずれて読み込んでしまいやすいと思う事を申し上げます。
”人が献げ物を、「痛みを伴う献げ物」との思いを込めて、レプタ2枚の献げ物と称する事”です。教会や聖会等では、しばしば、献金袋に「レプタ2枚の献げ物をしましょう」と書かれたり言われたりします。痛みの伴う献金を、その様に表現したくなるのは当然の人情です。

しかし、ここで、献げ物の値打ちを評価されたのは、主イエスだけであった事を見る時、”献げ物を評価するのは主イエスであって、人ではない”と思うのです。

 では、”主イエスは、この女性の献げ物の何を評価されたのでしょうか?”…”献金は感謝の気持ちの表れ”とも言われます。主は此処で彼女の感謝の気持ちを褒められたのでしょうか?

 先週の祈祷会で、ナルドの香油を献げたマリヤの事を学びました。マリヤは弟ラザロを甦らせて下さった”主イエスへの感謝”を込めて高価な香油を主に注ぎました。同時に、女性の直感で、もうじき愛する主の死を感じての”愛を込めた献げ物”でもありました。

 しかし、この”やもめ”の場合は、夫を亡くているのです…収入の術をまだ持っていない事を見ますと、おそらく夫を亡くしたばかりだったかも知れません。更に、律法学者達に食い物にされていたのです。

私事ですが、私の母は、私が2才の時夫を亡くした時、「死に場所を探して裏山を歩いた」と聞いた事がありましたが、この”やもめも、感謝所の状況では無かった”のです。

何故、この”やもめ”が全てを献げたのか理由は分かりません…ただ,この時、「この僅かなお金を献げてしまったら、明日からの生活はどうするか?」とか、人々から、「僅かなお金しか献げていない」と中傷される事や、「僅かな持ち金の中から全てを献げた偉い人だ」と誉められる事など考える余裕が無かった事は推察出来ます。

彼女にとって、何もかも、もうどうでも良ったのです。ただ,「神様助けて下さい」と神にすがる以外に手が無かった”のでした。

ですから、私共は、この物語を”立派な献金の手本”として読んではいけないのです…彼女は「立派な献金をする」とは、少しも考えていなかったからです。この”やもめ”は、只、”生ける神を仰いでいた”のです。”神を仰ぎ、神に信頼して自分を委ねていた”のでした。

 此処に、”この献げ物の意味がある”のです…神以外に、頼る所、信頼する御方が無くなった、祈りの人の無意識の行動だったのです。私共は、レプタ2枚の献げ物を”神を信頼して自分を委ねきった物語”として読むのです。

 実は、此処の「生活費」という言葉は「命」とも訳せる言葉です…ですから、主イエスが「あのレプタ2枚の献げ物をしているやもめを見なさい」と言われたのは、「この女性は、自分の命を、全存在を、神様に委ねている…この神への信頼を見なさい」と言う事なのでした。

 ”彼女の命の拠り所は、たった20円”でした…しかし、”その過酷な状況は、祈りの人であった、この”やもめ”を、神だけに信頼する事へと導き、生きる事から、また人の目からの自由をも与えた”のでした。

”献げ物というのは、自由なもの”です。どれだけ生活費から割いて献金しているとか、人の評価からも自由な物なのです。では、”主イエスは、私共の献げ物の何処を御覧になっておられるのでしょうか? 

 主は、神と私との関係を御覧になっておられる”のです…”どれだけ、主に信頼しているか?どれだけ主に委ねているか?どれだけ神が必要とされておられる物を自由に献げられるか?を御覧になっておられる”のです。

先週の祈祷会で、或る方が「献げ物は、自分の中に降りて来て下さったイエス様のゆえに、これだけの事をしたいと言う思いが与えられて出来るもの…そして、献げた後に、更に主の臨在が分かって来る」と証して下さいました…”強いられてでなく、心の中におられる主への愛から生まれる献げ物、主への感謝から生まれる献げ物、主に信頼し委ねる思いから生まれる自由な献げ物が献金”なのです。

この”レプタ2枚の献げ物”の物語は、”主イエスの眼差しの中で、主に信頼して献げる事を学ぶ物語”なのです。

 実は、ここに、”やもめと、十字架に御自身を献げた主イエスのお姿は重なる”のです。

”主は、貧しい、この”やもめ”が神を信頼し命を委ねた姿に、御自身をピタッと合わせるように、御自身の命を神の御手に委ねて十字架に架かられた”のでした…御自身の自由な意志によってでした。
それゆえに、この”やもめ”が、強いられてでなく、命をもって神を信頼した行為に、たった1人で十字架に向かわれていた、主のお心が慰められたのでした。

 ”私共も、今朝,レプタ2枚の献げ物から学んだ、「主に信頼する歩み」に踏み出す時、そこで、そこにおられる主に出会い、私共の信頼によって慰められておられる主を見る事が出来る”のです。