「あなたにとってキリストとは?」

マルコ12:35〜37
12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。


マタイ22:42

22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
あなたにとってキリストとは?」                                    
マルコ12:35-37、マタイ22:42 2003.1/12
*今朝は共に、マルコ2章35〜37節から神の言に聴いて参ります。
主イエスの十字架迄の最後の1週間は、論争が続きました。そして、ようやく最後の論争が終わりました。先週学びましたように、最後の論争の議題は「愛」でした…「全身全霊をもって神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」という事でしたが、この事は主イエスの遺言でもありました。

 そして、そのように生きる力の源こそが、マタイ22:42で「あなたはメシア(キリスト)の事をどう思うか?」とございますが、この「あなたにとってキリストは誰か?」と言う事なのです。そして、この問いこそが、私共が、週毎の礼拝に於いて、キリストに問い続けられている事なのです。

 「キリストをどう思うか?」…この問いに対して、「キリストは私の救い主」と答える者が、”キリスト者”であり、”キリスト教会”なのです。ですから、この問いに対する答えである”信仰告白こそ、キリスト者としての存在の土台となる”のです。

 私共は主イエスの事を、イエス・キリストと呼びます…この”イエスは名前”ですが、”キリストというのは名字ではありません”。キリストというのは、称号(タイトル)であり、「油注がれた者」という意味がございます。
 ”油注ぎ”とは、どんなものかと申しますと、”聖霊が注がれ神の器になる事を象徴した儀式”であり、その”就任式にオリ−ブ油という香油を頭から注いだ”ものでした。また、”神様から特別な使命を担わされた者にも、油注ぎが行われた”事もありました。このように、”キリスト”と言う言葉は、元々「油注がれた者」という意味で使われていたのです。

 それが、「救い主」という、”特別な使命を神から託されて(油注がれて)遣わされて来る神の一人子”を、”救い主(油注がれた者)”と呼び、待ち望むようになったのです。

 元々、人々を救う使命が与えられた神の器として”油注がれる者”には3種類の人がおりました…”王と祭司と預言者”です。
 しかし、これらの油注がれた者達は堕落して、人々を救うどころか逆に苦しめ続けて来たのでした。そうした中で人々は、”王と祭司と預言者”の”3つの務めを兼ねた、真の救い主を待望する様になっていった”のです。
 
 ”王は支配する者”です…正しい王は、神の御心を行い、人々を守り平和を与えます。しかし、人間の王は、すぐ権力に酔い、暴力や力によって人々を虐げて来たのです。そんな中で人々は、”神の御心を行う真実な王を求めた”のでした。

 また”祭司は、神と人の間に立って執り成す者”でした…人の罪の赦しを神に祈り、人々を神に執り成したのです。しかし、現実は、祭司達は名声ばかりを追い求め、宗教は命を失い神様も沈黙されたのです…そうした中で、人々は、切に、”体をはってでも自分達を神に執り成してくれる本物の祭司を求めた”のでした。

 ヘブル10:20-22に「イエスは…御自分の肉を通って(十字架)、新しい生きた道を私達の為に開いてくださったのです。更に、私達には神の家を支配する偉大な祭司(キリスト)がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり…信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」
とありますように、”キリストは、十字架で体をはって流された血潮をもって、日々、私共の為に祈り執り成して下さっている”のです。”それゆえに私共は、罪赦されて神に近づく”事が出来るのです。

 また”預言者は、神の言を、神から預かって語る者”でした…当時、神から言葉を受けて語る者が途絶えて久しかったのです。そんな中、主イエスが語る言葉を聞いた人々は、37節「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とありますように、”神の権威と力をもって語るキリストの言葉を喜んだ”のでした。

しかし、預言者達は、主イエスが,神の権威に満ちて言葉を語る姿に、喜んだのではなく、自分達が権威の座を失う恐れを抱いたのでした。

 こうした”神の御心を行う平和の王、人の罪の赦しを神に執り成す祭司、力ある神の言を語る預言者”という”神の器として3つの務めを兼ね備え”て、”神から遣わされた救い主こそが、イエス・キリスト”なのです。

 そのキリストが、「あなた方はキリストをどう思うか?何故、ダビデの子というのか?」と問われたのです。
此処に「ダビデの子」という言葉が出て参ります。マタイによる福音書の初めには、イエス・キリストに至る迄の系図が長々と記されております。初めて聖書を読もうとされる方々が挫折してしまう事でも有名な箇所です。その初めには「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図」と記されております…また主イエスが十字架に架かる為に工ルサレムに入場された時も、人々は「ダビデの子にホサナ」と歌って主を迎えたのでした。

”キリストはダビデの子孫として御降誕されると預言されていた”からです。

 そうであるなら「何故、ダビデの子だというのか?」と主は言われたのでしょうか?「変だな?」と思います…「私は預言されていたダビデの子だ」というのなら分かります。しかし、「何故、ダビデの子というのか?」と言うのは、まるで「それは違う」と聞こえるのです。

 36節に目を向けますと、「ダビデは聖霊によって、自分の子孫を主と呼んだ」とあります…この言葉は、ダビデが歌った詩篇110篇1節の引用です。「主(神)は私の主(主イエス)にお告げになった。私の右の座につきなさい。私(神)があなた(主イエス)の敵(サタン)をあなたの足下に屈服させる(十字架で打ち破る)迄」…ここで、ダビデは、”子孫である主イエスを「私の主」と呼んでいる”のです。

 ダビデは、聖霊によって、やがて、自分の子孫として御降誕される御方が、永遠の昔から、神と共におられる救い主だと知らされていたからです。そして、ダビデ王自身も、自分を遙かに超えた天的な救い主が、神から遣わされる事を待望していたのです。
 
 此処で主が言われた「何故、ダビデの子だと言うのか?」という言葉は、「私は、あなた方が思い描いてきたダビデの子(人)というだけではない。その思いを遙かに超えた神の子でもある…あなたは。それを知った上で、私をダビデの子だと言っているのか」と言う事なのでした。  
 ”キリストは、真の王、真の祭司、真の預言者として、油注がれて、神から遣わされ、十字架に至る迄降って、低く深く下から私共を支え、そして、死を打ち破って復活され、天の神の右の座にのぼられ、上から愛と力とをもって御支配して下さる、真の救い主”なのです。

 昔、或る番組で、次の様なお証が放映されました。
あるエリ−ト銀行マンの方がおりました。この方は猛烈社員で、夜11時頃まで残業して、家でも朝の3時頃まで毎日の様に残業されており、奥さんに「15分以上話しかけるな」と言っておられたそうです。

そんな中で、奥さんは寂しかったからでしょうか?教会に通うようになり洗礼を受けました。しかし、御主人はそんな奥さんの気持ちを全く理解できなかったのです。奥さんが50才をすぎた頃、突然、アルツファイマー病にかかられ、やがて子供や孫の顔さえも分からなくなってしまいました。

そんな中、看病の為に御主人は仕事を辞められ、賛美歌を聴いている奥様の顔が微笑んでいるので、一緒に教会に通う様になられ、やがてご主人も信仰に導かれ、信仰を支えとしながら、奥様が好きな、賛美歌や童謡を歌ってあげながら車椅子で散歩したり、奥さんの手足と成って仕えて13年が経ったのです。

奥さんが検査入院された時には、今迄の疲れが吹き出たという事ですが、それでも施設に預けた奥さんが気になる程、暖かい人に成っておられたのです。また「いろんな事を、家内の病を通して教えられました」と笑って語られた姿を忘れる事が出来ません。

娘さんも「私にとっての奇跡は、朝、目が覚めたら、母が治っている事ではなく、あの家庭を顧みなかったワンマンな父が変わった事です」と言われておりました…”これが、救い主、主イエスの業なのです。人は苦難の中でも、キリストの神の言によって、平和と喜びに預かる事が出来る”のです。

 この説教の初めに、「愛」に生きる源泉は、「あなたはメシア(キリスト)をどう思うか?」との主の問いに対し「キリストを救い主とする信仰告白に生きる事」と申しました。ゆえに主は、礼拝毎に「あなたはメシアをどう思うか?私を誰と思うのか?」と問われるのです。

そして”この「キリストこそ私の救い主」と告白する者は、主によって、神と自分と隣人を愛する者と変えられて行く”のです。