「キリストの献身」

ロ−マの信徒への手紙3章21〜31節
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
 「キリストの献身」
    2003年12/28

    ロ−マの信徒への手紙3章21〜31節A、 年末感謝礼拝

 今朝は年末感謝礼拝です。過ぎし年を振り返りますと、戦争に始まりテロに終わった感があります。教会でも合田文次兄を天国に送るという悲しい出来事がありました。しかし、背後で、私共1人〜を慰めつつお導き下さった、主イエスを共に見上げつつ、神の言であるロ−マの信徒への手紙3:21以下から、2回目になりますが、共に聴きつつ年末感謝の礼拝を献げて参ります。

 ロシアのある児童文学者が、子供の言葉の研究をしました。その中から、1つの例を御紹介致します。四歳半の男の子が、親と一緒にバスに乗り、丸い大きな目を開けてバスの窓の外を見ていた時、葬式の行列を見つけ、「みんな死んで僕だけになっちゃうんだね」と叫んだのだそうです。しかし、それは満足そうな叫びだったというのです。

”子供の言葉は、人間の心を素直に言い表し”ます。”自分の幸せを一番に願う心、また、”自分だけは死なないと思う利己的な心”です…大人になりますと、他者に配慮した言葉を語れる様になりますが、心の底にある思いは同じなのかも知れません…ですから、このお話しは信仰者にとっても無関係な事ではないのです。”誰の心の底にも、利己心があるから”です。

 ”人の痛みを自分の事として考えない。いえ、自分を守る為、考えたくない”のかも知れません。ですから、”今まで見つめてこなかった悲しみに出会ってしまうと、たちまち信仰がぐらついてしまう”のです。

私共は、”確信をもって、神と教会の前で信仰を言い表して洗礼を受けました”。しかし、しばらくして試みに遭いますと、”不信仰が、どんどん大きくなってしまう”…そういう経験は誰もが持っているのです。

 では、どうして,試みの中で信仰がぐらつくのでしょうか…”「こんな筈ではなかった」と、”神への信頼がぐらつくから”だと思います。

そんな時、「ああ日本人なのだなあ」と思うのです…”日本人には、「信仰していたから、御利益があった。幸せになった」という感覚が染み込んでいる”のです。ですから、「恵みと共に、キリストの為に苦しむ事も賜っている」という、”信仰ゆえに負うべき重荷を告げる御言葉”に違和感を感じたり、悲しみや苦しみの直中にある時に、”胸を張って、「私はキリスト者です」と証しにくくなる”のです。

しかし、キリスト教会最初の伝道者であるパウロが言う信仰とは、その様な信仰ではなかった筈なのです。

 パウロは22節で「イエス・キリストを信じる事により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」とひたすら語っているのです…私共は、”信仰によってのみ救われ義とされる”のです。

これは、”ロ−マの信徒への手紙に一貫して流れているメッセージ”です…”人の救いは、律法や善い行いによるのではない”のです…”神が「あなたは、そのままで救われる」と言って下さる事は慰め”です。けれども不思議な事ですが、”キリスト教会の歴史”の中で、必ずしも、この教えは受け入れられて来なかったのです。

”虫が良すぎると思ったから”でしょうか?…しばしば、「善い行いによって生きるべき」という思いが復活したのです。だから、このローマ人ヘの手紙を読み直したマルティン・ルターという人によって、”宗教改革が起こった”のでした。

しかし、ルターのおかげで新しく生まれた”プロテスタント教会も、同じ事を繰り返した”のでした…”信仰だけでは頼りなくなったから”です…”「やはり善い行いをした方がよい。善い行いをして、自分は立派なキリスト者だと納得できた方がいい。他人にも証になった方がいい」と行い重視に傾いて行った”のでした。

 勿論、悪い行いより善い行いが良いに決まっています。此処で問題にしてるのは、”救いに預かる為には良い行いは必要か?”という事です。

”人間には、自分を罪から救う力はなく、罪を赦す力も無い事は、聖書の歴史が明らかにして参りました”。ですから、”人は救いにおいては、これっぽっちも、自分をあてにしてはならない”のです…”神様だけに頼る”のです。

 22節に、「イエス・キリストを信じる信仰」とあります…”イエス・キリストを信じる信仰が私共を救い、また苦難の中でも、私共を支える”のです…私共は、先ず、この事を、”心に刻まなければならない”のです。

”イエス・キリストへの信仰とは、自分を幸せにして下さると信じる事ではないのです…キリストの献身=十字架で私共の罪を贖って下さった、イエス・キリストだけを見続ける事”なのです。

 旧約聖書で、苦難の僕と言われたヨブが、人の不幸を一手に背負った様な中で、「私を贖う者は生きておられる」と言いました…”ヨブは、既に、そこで、”イエスを見つめる信仰と、同じ信仰に立っていた”のでした。

”信じるとは、どんな不幸の中にあっても、たとえ、それが死の床であったとしても、イエスだけを見続けるという事”なのです…”言い換えれば、キリストが、私の為に十字架に架かり、3日目に死を打ち破って復活されたと言う事実を見据える事”です。

 私共が見つめるべきイエス…それは、”パウロが、イエス・キリストを、「贖いの供え物」と一言で紹介した”様に、”「贖いの供え物」となって下さったキリスト”なのです。

25節に、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の為に、罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになる為です」とあります…”イエス・キリストにおいて、神の義を示された”と言うのです…「十字架で流された血潮において、罪が贖われ、神との交わりが回復した事を見た」と言ったのでした。

 この「贖いの供え物」という言葉は、旧約聖書にも出て参ります。神はエジプトの地から、イスラエルの民を10の奇跡と、紅海を2つに分ける奇跡をもって救い出されました。そして、民は、40年間の荒野の旅に出たのでした…それは、”人生に喩えられる苦難の旅”でした。それゆえ、”神は十戒を授けられたのです…それは,律法を守る者と、神が共にいて救う契約(約束)”でした。

 そこで、”モーセは礼拝を献げる幕屋を造り、その中心に十戒を入れた契約の箱を置いた”のでした…そして、”契約の箱の蓋の名を「贖いの供え物」と言った”のです。”「贖いの供え物」は、人の罪を赦し、神との交わりを回復するから”です。

”神に仕える大祭司は、1年に1度「贖いの供え物」という名の蓋の上で、民の罪を赦して頂く為の儀式を献げた”のでした…”犠牲の羊の血を7度注いで、民の罪の赦しを祈り執り成した”のです。こうして、”罪の赦しに預かった民は、「ああ、此処に神がおられた」と言う様な、神の臨在を通して、神の救いの業に預かった”のでした。

 ”パウロは、神が,十字架に神の小羊イエスを「贖いの供え物」として献げ、流された血潮によって、1度限りで、完全な罪の贖いを完成した”と言ったのです…私共が”人生の荒波の中で、神が沈黙されているように感じてしまって、神への信頼が揺らいでしまう様に感じる時”にも、”神が、自分を見ていて下さる徴こそ、この十字架の贖いの御業”なのです…それ以外に、”神への信頼に立ち帰る所はない”のです。

 この事を、しっかり受け止めて、もう一度、22節に戻ります。「イエス・キリストを信じる事により、信じる者すべてに与えられる神の義」という御言葉です…此処に「イエス・キリストを信じている」とありますが、この箇所は、「イエス・キリストが信じる信仰による神の義」とも訳せるのです。

 ”キリストの十字架の贖いを、キリストが信じ抜いてくださった”…その”キリストの真実な信仰のおかげで”という事なのです…私共が、神への信頼に立ち続けられない、試みの時にも、”キリストの十字架の贖いを、キリスト御自身が信じ抜いて下さったおかげで、私共は支えられ、信仰を与えられ、立ち直れる”のです。

 宗教改革後、カトリック信仰を維持したフランスで、「信仰によって義とされる」という”プロテスタント教会の信仰”を貫いた人々が殉教しました。勿論、背後には政治的な理由がありました。

 その時、”息が絶えるまで讃美歌を歌い続けた”のだそうです。そして、その賛美の力が、立ち合った人々に深い信仰的感化を与えたのです。その為に、声が出ないように唇を切り取られて処刑されたと伝えられております。

 ”何故それ程に賛美が出て来たのでしょうか?”…それは、”自分の力ではなく、特別に主イエスの信仰に支えられたから”としか考えられません。

 今、共に過ぎし1年を振り返りたいと思います…”悲しみや苦難の中、信仰に立てなくなった時、確かに主イエスは「あの十字架であなたは贖われた。私の十字架はあなたの為だった。あなたの代わりに、私がそれを信じている」と、主イエス御自身の信仰で、私共の信仰を守り抜き、支えて下さった事”を思い、共に神に感謝を献げたいと願います。

祈祷>イエス・キリストの父なる天の神さま
今朝こうして、年末の感謝礼拝を献げる事が出来、感謝致します。過ぎし1年を振り返りますと、世界は戦争のニュースが駆けめぐりました。一昨日はイランの大地震のニュースも飛び込んで参りました。今、悲しみの淵にある人々の事を思います。主イエスの慰めが与えられるように祈ります。

 私共の群れの中にも、大きな憂いもありました。そうした憂いに閉ざされ、時として神の憐れみが見えなくなる私共の心に、1年を締めくくる礼拝に於きまして、主イエスのお姿を鮮やかに示してください。

 主が身をもって流された血潮によって、切り離す事の出来ない父なる神との絆が結ばれた事をお示し下さい。そして、その絆を守る為、十字架にお架かり下さった、御子御自身が、地上にあって、ただ一人十字架の贖いを信じ抜いて下さり、私共が不信仰の中にある時も、私共の信仰を支え、神に望みを置く心を回復し、そして、その望みによって生きる事ができる者として下さいますように。

 年若い者も、年老いた者も、試練を通ります…その所で、十字架の御業を見つめる信仰をお与え下さい。いえ、十字架の贖い信じる、主イエス御自身の信仰で、揺れ動いてしまう私共をお支え下さいますように…。来たる年も、私共の信仰をお支え下さいますように…。
今年も教会を愛して下さった全ての方々を祝福して下さいますように…。

  主イエス・キリストのみ名によって信じてお祈り致します。 アーメン