「美しきキリスト」

ルカによる福音書2章8〜14節

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

フィリピの信徒への手紙1章29節
1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

 Executive Committee of The Common Bible Translation
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 美しきキリスト
    2003年12/14
           ルカによる福音書2:8〜14. 200312/21 クリスマス礼拝
 クリスマスおめでとうございます。過ぎしアドベントの期間、私共は、二千年前のキリストの御降誕によって、世の光が、この世の暗闇に輝きだした様に、今年もクリスマスの出来事が、自分の心にも起きる様に待望し、心備えをして参りました。いよいよ、そのクリスマス礼拝の朝を迎えました。

 最初のクリスマスは、今から二千年前に起きました。イスラエルを支配していたローマ帝国の皇帝アウグストが、自分の力を誇示し、更に、税金を集める為に、支配下の国々に対して、”世界で初めの人口調査の勅令を出した”のです。それを受けてヨセフとマリヤは、人口調査の登録をする為、ナザレの街から故郷のベツレヘムへ、120qにも渡る長旅へ出たのです。

身重のマリヤにとって、それは過酷な旅でした…やっとベツレヘムへ辿り着いた時、安堵感からでしょうか?…陣痛が始まってしまったのです。

 二人は必死に宿屋を探しました。しかし街は、人口調査の為に帰郷した人々で溢れていたのです。とうとう夜がふけてきました…しかし、誰1人、マリヤを顧みてくれる人がいなかったのです…皆、長旅の疲れと、故郷についた喜びで”自分の事だけに夢中だった”からです。宿屋も、かき入れ時でしたので他人の事を気に留める余裕など無かったのです…”自己中心で冷たい人の心”を見る思いが致します。

聖書は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と記します…やっとマリヤに与えられた出産の宿は、”家畜小屋”でした… その”家畜小屋は洞窟”だったと言われています…明かりも暖房もない所でした。神の一人子は、誰からも顧みられる事もなく、暗く冷たい”家畜小屋”でひっそりとお生まれになったのです。

 今朝は、ルカによる福音書2章8〜14節から、共にクリスマスの夜のべツレヘムの家畜小屋に思いを馳せたいと思います。”乳飲み子が布にくるまって、飼葉おけの中に寝かされているお姿”です。

それは、平安そのものと言ってよい光景であり、美しいクリスマスの光景です。しかし、その”キリストの平安な姿は、十字架の前夜のゲツセマネの園で血の汗を流して祈られた主イエスと深い次元で一つにつながっている”のです。今朝は、この事について考えてみたいと思います。

 最初に、ルカ2:12を見てみます…「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへの徴である」…それが”クリスマスの徴であった”のです。

この「飼い葉桶に寝かせてある」という言葉は、7節と16節にも繰り返されております…”クリスマスの光景の中心がここにあるから”です。今朝は、ここに描かれている乳飲み子イエス様を「美しきキリスト」と呼びたいと思います。

 では、この”主イエスの美しさの本質”は何なのでしょうか?…その解釈の手掛かりとして、主イエスご自身が、「野の花の美しさ」を語られた時の言葉を思い起こしたいと思います。マタイの福音書の”山上の説教”で主イエスは、”野の花の美しさ”についてこう語られました。

 マタイ6:28−31「何故、着物の事で思い患うのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さる…。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな」と…。

 主イエスは、「『野の花』が美しいのは、神が装って下さっている…そして、そこに委ねている美しさだ」と言われたのです…ですから、”野の花は、神のご計画に委ねて信頼している、「信頼の教師」”なのです。

クリスマスに御降誕された主イエスは、家畜小屋の飼葉桶の中に、布にくるまり身を横たえておりました。その”石を彫った飼葉桶の中に、しかも、家畜のヨダレで汚れた飼い葉桶の中に寝かされている、乳飲み子イエス様のお姿の中にも、野の花の美しさに優る「信頼の教師」を見る事ができる”のです。

 此処に、”神に信頼する美しさが輝き出ている”のです…”父なる神の御手に、ご自分の全てを委ねきっている乳飲み子イエス様”です…そして、”そのお姿は、あのゲツセマネの園で、血の汗を流して祈られ、全てを神に委ねて十字架に向かわれた主イエスの姿と重なる”のです。

12節に「寝ている」という言葉が出てきます。新約聖書がこの言葉を使っているのは、他に、”十字架から降ろされ”「主イエスの遺体が墓に納められた」とある箇所だけ”です。「納められた」と「寝かされた」は、原語では同じ言葉が使われている”のです…この言葉によって、”クリスマスの乳飲み子イエス様と、十字架の主イエスという、地上の生涯の始めと終りが一つに結び合わされている”のです。

”主イエスの父なる神に対する信頼は、「飼葉おけ」の中に始まり、全生涯を貫き、やがてゲツセマネの苦悶の祈りと、十字架へとつながって行った”のでした。

 フィリピ2章6〜8節の「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました…へりくだって、死に至る迄、それも十字架の死に至るまで従順でした」とは、正にその事なのです…そして、”墓の中に身を横たえられた”のでした。それが、”徹頭徹尾、神への無条件の信頼に生きる主イエスの生き様”だったのです。そして何ものも、この主イエスの父なる神への信頼を破る事はできなかったのです。

 失われ行くものにしがみつく事は、何の解決にもなりません。”決して失われる事のないものに信頼を寄せる事ができる時、それが人生を生きるカとなる”のです。

 ”主イエスは、十字架こそ、私共の救いと癒しを生み出すという神の御計画に信頼して十字架に架かり続ける力を得た”のでした…次の句は、旧約聖書の、”十字架を預言している所”です。イザヤ53:5「彼が刺し貫かれたのは、私達の背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎の為であった。彼の受けた懲らしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された」…正に主イエスは、この御言葉から、”十字架こそ、神の御計画であると信じていた”のでした。

 この”神を信頼する主イエスの美しさは、献身の美しさ”でもありました。”主イエスは信頼したからこそ献身できた”のです…そして、”この美しさは、私共に、立ち上がる力を与えてくれる”のです。”私共が試練をくぐる時、神を信頼する事へ、神の御計画に身を委ねる事へと立ち上がらせてくれる”のです。

 この”主イエスの神への信頼と献身の美しさの輝き”を見る時、自分の幸福のみを追い求める生き方が醜く思われてきます。世の中には、深い暗闇があり、”そうした世の暗闇に光を灯す為に、主イエスが神に信頼しつつ献身の生涯を送られ、十字架に架けられた事を思わせられるから”です。この”キリストの、神への全き信頼と献身ゆえに、私共が救われたのです…そして、そこから、力が湧き、私共も神への全き信頼に生きる事が出来る”のです。

”クリスマスの「美しきキリスト」は、私共の中に、神への信頼に生きるカを起こす”のです。今から共に聖餐の恵みに預かります。”主イエスが、神の御計画に信頼して、十字架に架かり続けられて、裂かれたお身体と、流された血潮に、信仰によってパンとブドウ酒を通して預かる”のです。この所で、”罪の赦しと永遠の命に預かる”事が出来るのです。この美しきキリストの神への信頼によって与えられた恵みです…そして、そこから私共も、”神の御計画への信頼に立ち上がるクリスマスとして頂きたい”と願います。

祈祷>天のイエス・キリストの父なる神様  
 私共は、今年もまた、クリスマスの出来事が心に起きますようにと心を合わせ、心を備えて祈って参りました。そして、このクリスマス礼拝の朝、共に心を合わせて、あの家畜小屋に御降誕された主イエスに思いを馳せました。

 そこには、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエス様がおりました。その姿は、父なる神に全てを委ねきって安心して眠る御子の姿でした。そのキリストは生涯に於いても、父なる神への信頼を貫かれ、十字架の前夜のゲツセマネの祈りでも、血の汗を流して祈られ、父なる神への信頼に立つ勝利をもって十字架に向かわれました。そして十字架では、”神の御計画への信頼の中、身を献げて、救いの御業を成就して、墓にお身体を横たえて下さった”事を思います。

 あなたは、御降誕されて、”父なる神への信頼の中に身を横たえ”られ、”父なる神への信頼の中で、墓に身を横たえられ”ました。

 そして、父なる神は、御子の信頼に応えられて、救いの道が開かれた証として、御子を死から復活させられた事に深く感謝致します。

 今から、兄弟姉妹と共に聖餐の恵みに預かります。御子イエスが、父なる神への信頼の美しさをもって十字架で裂かれた肉と、十字架で流された御血潮に預かろうとしています。どうぞ1人1人が、主イエスの父なる神への信頼の美しさを思いつつ、聖餐の恵みに預かる事が出来ますように…。そして、そこから、私共もまた、神への信頼の美しさに生き、あなたの御計画に身を委ねる事が出来ますように…。

 このクリスマス礼拝を通し、御前にある兄弟姉妹に恵みを豊かにお与え下さい。午後にもたれる祝会と、24日のキャンドル礼拝を祝福して下さい。1人でも多く、この町の民を与えて下さって、共に本物のクリスマスを祝う事が出来ますように…。 
   主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン