「良い羊飼いなる神」
旧約聖書 詩篇23篇
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「良い羊飼いなる神」
詩編23篇、召天者記念礼拝、03.11/9
今朝は、先に天に帰られた方々を偲び、先人の歩まれた信仰の歩みを思い、自分達の信仰を振り返る時です。
愛する者に先立たれた悲しみや寂しさは年月が癒すと言われます。確かにそう思います。しかし、年月と共に更にハッキリとしてくる面もあります。
年月は故人の人間的な欠点の記憶を風化させ、”良い思い出だけを純化していき、故人との関係を年ごとに確かなものとして行く”と思うのです…「故人に心の中で語りかける」のは、こうした心の動きから生まれる行為かと思います。
私の母から聞いた事ですが、呻きしか出て来ないような、大きな試練にあった時、祈りが言葉にならず、思わず、「かあちゃん(私の祖母)と呼びかけ祈っていた」と言うのです。「かあちゃん」というのは山形県の言い方かと思いますが…。その話を聞いた時、「イエス様でなく、かあちゃんってお祈りするんだね」と言って笑った事がありました。
今年の夏、G兄が天に召されましたが、遺族の方々の心の中で、また教会の方々の心の中でも、これから後、”故人の思い出が純化して、心の中で呼びかける相手となってくる”と思うのです。また此処に遺影が並んでおります、故人の方々の御家族も、そうであったろうと思います。
私事でありますが、一つの思い出を語らせて頂きたいと思います。私は重複を含めて7度名字が変わりました。実の父が広島で被爆して、私の誕生後に急死し、3年後の母の再婚によって、新しい父から虐待を受けるようになりました。そんな中、幼い心から安らぎが消え、夜、不安で眠れなくなった私の為に、母は隣の台所で童謡や賛美歌を歌いながら皿洗いをしてくれました。子守歌代わりだったのだと思います。
母自身にとっても、教会に行く事が許されない境遇にあって、賛美歌を歌い神に寄りすがっていたのかも知れません。私が慰められるのは、母がそうした苦労の中で、”賛美歌を歌っていた事”です…”母は決して一人で苦労していたのではなく、主イエスに手を引かれて頂いて歩んでいたと思うから”です。
今朝は、詩編23篇を読みました。この23篇は150篇にわたる詩篇の中で、最も愛唱されてきた歌と言われているものです。この”詩の作者、ダビデ王は、実の息子に命を狙われ、命からがら死の陰の谷を逃げるような困難を経験した人”です…この詩は、そうした”涙の中で綴られた詩”なのです。
1〜4節を見ますと、”神が羊を慈しむ羊飼いに譬えられ”ています…「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」と…。
中東地域は乾燥地域であり青草や水は極限られた所にしかありません。ですから羊飼いは、責任を持って、毎日、羊をそこに連れて行くのです。”羊は最も弱い動物”と言われます。戦う武器を持たず、しかも大変な近眼だからです。ですから、羊飼いは何時も羊を見張り、夜、囲いに入れる時には小さな門をくぐらせ、1匹〜怪我はないかとチェックして病気や怪我を治療し、健康状態が悪い羊には餌を与えるのだそうです…ですから”「神を私の羊飼い」と告白するのは、神を信頼している事”なのです。
この最初の節は、23篇全体を貫く、そうした”神への信頼”を歌っているのです。「私には何も欠ける事がない」というのは、「神を信じたら欲しい物が何でも手に入る」という事ではなく、「神は、良い羊飼いの様に、私の本当の必要を御存知であり、本当に必要な物は、必ず満たして下さる御方である」という”信仰告白”なのです。
ですから、「こんな信仰告白が、何時も心から出て来るなら、何と幸いか」と思います…何故なら、人生の危機の中、”「主は私の羊飼い」と見上げ、主イエスと出会う事こそが、平安と力と導きを受ける秘訣だから”です。
しかし、これは反対の事にもつながります…「主は私の羊飼い」と”神を信頼する事が出来ない時”には、”神から平安も、力も、喜びも得る事は出来ない”と言う事です。どんなに聖書の知識があっても、人と人とが出会って信頼し合うように、”「私は良い羊飼い」と言われる、主イエスとの出会いがなければ、主は<私の良い羊飼い>とはならない”からです。
では、どうしたら”主イエスと出会う事が出来るのでしょうか?”…それは”信仰によって”であります。
「主イエスは、私の罪を贖う為に、私の身代わりに十字架に架かって、神から審きを受け死なれた事。しかし、その3日後に死を打ち破って復活して下さった、私の救い主」と信じる事”なのです…”この信仰によって、人の罪は赦され、汚れた者と出会う事の出来ない筈の、聖なる神の子、主イエスとの出会いが可能となるから”です。
2〜3節に目を移しますと、「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い。魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる」とあります…”青い草、憩いの水のほとり”…正に”平安を絵に描いた世界”です。主イエスとの出会いによる平安の世界”です。
そして、そこに辿り着く為に、「主は、私を正しい道に導かれる」と言うのです…この”正しい道は「神との最短距離」という意味”です。”神は、どんな時にも、神の救いの御手が届く所に導いて下さっている”とダビデは悟ったのでした。
4節には「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」とあります…この句は”23篇の中心的な句”です…絶体絶命の、”死の陰の谷でダビデは神を見上げ、神から「私はあなたと共にいる」という宣告を受け、神に信頼する信仰を回復し、平安と、神の守りにあずかった”のでした。
思えば、G兄の病を知り、検査結果がでる日の夕方、祈りながら犬の散歩をしておりました。あの日の夕日を今も覚えています…その時、私の心に与えられたのが、この御言葉でした。はじめ「死の陰の谷」という言葉に、戸惑いを覚えたのを思い出します。しかし、やがてその意味が分かる時が参りました。
G兄の場合は、この世の命は尽きられました。しかし、”最後の最後まで、激痛に苦しまれる事なく、平安の内に、天国へと導かれた”のでした。これもまた、”良い羊飼いである主イエスの導きであった”と思います。
5〜6節では、ダビデは、”神を客をもてなす主人に喩え”て、”神が、何処でどの様に助けて下さるかを語られたのです…「(神は)私を苦しめる者を前にしても、(神は)私に食卓を整えてくださる。(神は)私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」と…。
”良い羊飼いである神は、現実的な問題の中に苦しむ私共に対して、食卓に於いて臨んで下さる”のです…この”食卓というのは礼拝”の事です。「神は、礼拝の場で、私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」のです。
先程も申しましたが、中東は乾燥地帯ですので、”旅をしてきた、お客さんの乾いた頭に、宿の主人が香油を注ぎ、杯にワインを溢れる程つぐ事が最上のもてなし”とされていたのです。
ここで神は、「礼拝する者に、香油を注ぎ杯を満たすと言う最善をもって報いる」と言われたのでした…そして、その”最善の報い”というのは、”聖霊を注ぎ、心を聖霊で満たして下さる”事なのです。
”聖霊は、父なる神、子なる神キリストと三位一体である、霊なる神”です…”共にいて下さる霊なる神”なのです。この”聖霊は、死の陰の谷にいる人に対しても、神の平安で満たされる”のです。そして、これは、”ダビデ王が死の陰の谷で経験した事実”なのです。
結びにダビデは、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」と言いました。此処の「追う」と言うのは、「神は、何処までも私を追ってくる」と言う事です。
”人間は弱い者”です…「死の陰の谷」に直面すると、”神を見上げる心の余裕を失ってしまう弱さを持っている”のです。しかし,「私は良い羊飼いである」と言われた主イエスは、”羊飼いなる神を見失い迷子になった1匹の羊を何処までも〜探し抜く良い羊飼い”なのです。あの”十字架と同じ真実で、迷う私共を探して〜探し抜いて下さる。追い続けて下さる御方”なのです。
心がうなだれ、主イエスを見上げる事も出来ない時、良い羊飼いである主イエスは、私共の目の前に立って、私共の名を呼んで追い求め、主を見上げさせて下さり、主の平安を与たえ…先に召された方々と共に、天国で主イエスに見える日まで、この世の旅路を共に歩んで下さる”のです。
祈祷>天の父なる神様
今朝、私共は、この故人記念礼拝で、あなたが良い羊飼いである事を聴きました。どんな涙の谷、死の陰の谷を歩む時にも、あなたは、私共の心に聖霊なる神を注ぎ、憩いのみぎわに伴うとお約束下さった事に感謝致します。
確かに、人間は弱い者で、目の前の不安や困難を見る時、神を見上げる事が出来なくなりやすい事を思います。しかし、私共が弱さの為、あなたの前に不真実である時も、あなたは良い羊飼いの様に、99匹の羊をおいても、1匹の迷子の羊を探し抜いて下さる真実な方である事に感謝致します。どうぞ私共を何処までも追い探し続けて下さい。
今年は、G兄が天に召されました。どうぞ、御遺族の方々の心を更に〜お慰め下さいますように…。
また今朝は、先に天に召された方々の遺影と共に礼拝を献げました。良い羊飼いである主イエスに背負われて、この世のあら波を歩み抜かれた方々です。私共が心で故人に語りかける時、お1人〜を真実に導いて下さった主イエスを、私の良い羊飼いであると知る時を与えて下さいますように…。
今、病んでいる方々、御前にあるお1人〜、そして御遺族の方々の上に、聖霊を豊かに注いで下さり祝福して下さいますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン
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