「人の現実」
ロ−マの信徒への手紙3章9〜22節
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らの喉は開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「人の現実」
ロ−マの信徒への手紙3章9−22節、03.11/23
今朝は、ロ−マの信徒への手紙3章9−22節から、共に”現実を見つめる事から始まる救い”という事について神の言に聴いて参ります。
どんな名医でも治療の一歩は検査から始まります。正しい診断がなければ適切な治療が出来ないからです。それは、”魂の救い”に於いても言える事なのです。”自分の現実を知る事から救いという出来事が始まるから”です。
先週、礼拝後に壁塗装と屋根の修繕の契約を致しました。業者の方や教会関係者の方々の言葉に耳を傾けますと、メンテナンスが急務であり、この期を逃しますと、塗装だけで終わらず、壁や屋根自体の修理となり数倍の修繕費が必要となるとの事でした。こうした教会の現実を知る事から、教会員の方々と共にした決断でありました。
土居教会の現実を知るという事を考える時、もう1つ思わされる事は、教会を築いて来られた方々の”高齢化の問題”です。
スイスのトゥルニエという人は「老いの意味」という書物の中でこの様な事を言っております。「年を重ねて第一線から退くという事は、人生が終わるという事ではありません。人が成熟し職業に就き結婚をするという、第1の転換期に匹敵する第2の転換期を迎えたという事なのです。
確かに、この第2の転換期は、弱まる事であり、衰える事であり、疲れを知る事です。しかし、どんなに老いるのが嫌だとしても避けて通れないのだから、その人生の大きな変化をきちんと受け入れて欲しい。その為には、若い時から準備をしていなければならない」というのです。
”仏教では、病む事と老いる事は、人生不可避の悩みとして強調”します。しかし、”聖書は、寧ろ信仰の代表者として、高齢者を生き生きと描く”のです。勿論、聖書に登場する信仰の偉人達にも、老いていく寂しさや悲しみが無い訳ではありません。しかし、”その寂しさや悲しさを中心テーマとして描いている物語を聖書に見つける事は出来ない”のです。
何故でしょうか?…”聖霊は老いも若きも関係なく恵みを与えて下さるから”です。御高齢の方には、”天国で永遠の命に預かる(栄化)の希望を与え、寂しさの中にも、慰めと希望に生かして下さる”からです…ですから、”この希望に慰められつつ、信仰に生きる姿が証”なのです。”
現実を見つめながら神を見上げる者に対して、神は救いの道をお与え下さる”というのが、今朝の聖書の箇所のメッセージなのです。
今朝お読みした神の言は、”人間の罪の平等”について記しています…意外なのですが、キリスト教会最初の伝道者パウロは、此処ではじめて「罪」という言葉を使ったのです。
パウロは9節で「皆、罪の下にあるのです」と言ったのです…続く10節の後半では、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない…」とたたみ掛けるのです…という事は、「誰も罪の上にいない…罪を支配し、自由にコントロール出来る者はいない」という事です。
10〜18節は括弧の中に入っております。旧約聖書の詩篇53篇の引用だからです。その部分をお読みします。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、誰もかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇にはまむしの毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」と言うのです…”如何に人という者は、昔も今も、罪の下にあるか”が分かります。
20節の最後の所には、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあります…この「自覚」と訳される言葉は、「認識」とも訳す事の出来る言葉です。「認識」というのは、"事柄を正しく認め知る”事です…”律法は、人に,自分が如何に罪に支配されているかを認めさせるのが役目”なのです。
しかし、キリスト教会最初の伝道者パウロが、此処で敢えて、「認識」ではなく「自覚」と言う言葉を用いたのには訳がありました…何故なら、「自覚」という言葉には、「認識したものが自分のものになる。身に付く」という意味があるからです。”キリスト者は、神の言から、罪の支配下にある自分の姿を身にしみて知らされる”のです。
12節には、「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった」とあります。…”みんな腐って役に立たない者となっている”というのです。日本には「腐っても鯛」と言う言葉がありますが、「腐った鯛ほど扱いにくいものはない」と言う言葉もあるそうです。
”神の最高傑作である人間”は、正に”魚にたとえるなら鯛の様な存在”かも知れません…しかし、”その人間が、「どんなに腐ってしまい、神が、人間をどんなに持て余しているか」を、パウロは記した”のでした。
”13〜14節迄は、無益なものとなった「ロ」について”語られています…パウロは,人が口から発する言葉を、「開いた墓」というのです…更に「その舌で人を欺き、彼等の唇にはまむしの毒がある…口は、のろいと苦い言葉とで満ちている」。つまり、「人の口は、毒と死臭がするものとなっている」と言ったのです。しかし、”聖霊によって舌が聖められるなら、口は、人を生かし、人を慰め立てるものと回復される”のです。
”15節以下は、無益なものとなった「足」についての神の嘆きの所”です…”足は道を歩く為のもの”です。先の甲子園で今治西高の義足の3塁手が全国の脚光を浴び、義足というものが注目されました。報道を見ていて、足というものが、如何に精巧に出来ているか、そして、神から与えられた恵みであるかを教えられました。しかし、”聖書は、人は神に与えられた足をもって、「平和の道」ではなく、「人の血を流す破壊と悲惨」の道を歩んでいる事を語った”のです…現実の社会の姿です。
何故そうなるのでしょうか?…その答えが18節なのです。「彼らの目には神への畏れがない」からというのです。実は,”私共が争う時、1番傷ついているのは神様”なのです。先週、信仰は「立ち止まり、沈黙し、礼拝する事」と学びました……もし,人がその様な歩みをしているなら、「それは神が悲しまれる道だ」と言う聖霊の囁きを聴く筈なのです。
19節にも、「全て律法の言う所は、律法の下にいる人々に向けられています。それは、全ての人の口がふさがれて…」とあります。「律法の下にある者は沈黙して聴く」と言うのです。
そのように、”神の言に沈黙して聴く事が、神と出会う唯一の道、礼拝の道”だからです。”その事が、キリスト者の朝の最初の業になる時、神の言に聴く事から1日を始める時、その方の生活は御言葉に生きるものとなる”のです。しかし、そうでない時、「全ての人は罪の支配下に置かれるようになる」と神は語られるのです。
私共が”神に喜ばれる道を歩み、また、神の臨在に留まり続ける為に、最も大切な事は、「罪の自覚」”なのです…”教会は罪を犯したら行けなくなる所ではない”のです。”罪を自覚し、罪を悔いる者こそが招かれる所”なのです。何故なら、そうした者こそ、神の下に留まる者となるからです。
こうした、”罪の自覚に生きる事を、「敬虔」”と申します。そうした”敬虔な歩みの中で、人は「神に触れる」事が出来るから”です。
では、”どうしたら、いつも礼拝で恵みに預かる事ができるのでしょうか?”…ひとつ言える事は、”感動するお話しを聞きに行くという姿勢では駄目”という事です。「恵まれる」という”体験”は、”心の感動”ではなく”神と出会う喜び”だからです。
”罪赦され清かにされた心で神と出会うという経験は、この「敬虔」からしか生まれない”からです。”日々、聖霊によって御言葉から罪を自覚し、神の赦しに預かり続ける事にかかっている”のです。聖霊なる神は、そのように歩む者に対して、”必ず「救いの道が開かれている」事を告げて下さる”のです。
21〜22節に、「しかし今や、神の義が…現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、全て信じる人に与えられるものである…。」と言うのです。
”誰一人、例外なく、自分の罪の現実を見つめ、十字架を見上げる者に、「見よ、此処に救いがある」と神は赦しと救いを与えて下さる”のです。
こうした歩みは、決して”自分の罪だけを見つめて歩む、うつむいて歩む、消極的な歩みではありません…「見よ、この十字架に救いがある」と言われる神を忘れてはなりません。罪赦された者が経験できる…神と共にいる事が、いよいよ清かにされる、喜びの歩み”なのです。
確かに、”神の御業を見る事も、神の奇跡を見る事も、心踊る喜び”です。それは御言葉に生きる者への素晴らしい神の祝福です。しかし、それは、”過ぎゆく祝福”でもあるのです。しかし、「罪の自覚」に生きる”敬虔”さは、その人を、”天国に至る迄、神の下に留める”恵みをもたらす、”過ぎ行かない祝福”なのです。
お祈りをいたします>天のイエス・キリストの父なる神様
この朝も、あなたのみ言葉をもって、私共の心を開き、聖霊をもって私共を励まし、年老いた者も、年若き者も、意気盛んな者も、自らの罪の現実を身にしみて知りました。人の心を殺す毒と死臭を放つ口、血を流して歩く足を持つ、神を畏れない者、それが人間の現実だと、今朝、あなたは語って下さいました。しかし、そんな口を回復し、主を賛美するものと変えて下さる為に、また、福音を伝える足と回復する為に、あなたが十字架にお架かり下さった事に感謝致します。
この恵みの体験を分かち合うことができるのが教会である事を思います。あなたが十字架で建てあげてくださった義の世界です。ここに踏み止どまり、ここに踏みこたえ、望みを回復することができますように。自分の肉体の老化や、心の弱まりを嘆いている者を、どうぞ慰め励ましてください。お互いが退け合うのではなく、年若き者は年老いた者を、年老いた者は若き者の為、祈りに覚えて励まし合うことができますように。
会堂修繕が、不思議な主の導きの下に決議されました。キリストのお躰である教会が礼拝を献げる会堂が、大切に美しく長持ちする事を1つの願いとして、どうぞ、今、この教会の上に祈りの一致を与えて下さい。献げる事の出来る者も出来ない者も、全ての者ができる祈りにおいて一致する事が出来ますように…。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。 アーメン
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