神につながる信仰

[新共同訳] ローマの信徒への手紙 3章5〜8節
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

[新共同訳] ヨハネによる福音書
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

  神につながる信仰

 ロ−マの信徒への手紙3章5〜8節、ヨハネによる福音書3章16〜18節、
03.11/23

今朝は、ロ−マの信徒への手紙3章5〜8節と、ヨハネ3:16−18から、共に信仰というものについて聴いて参ります。

 ヨハネ3:16−18に「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である…御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあります。

これは、”「全ての者を救う為に、神は一人子をこの世に遣わされた。しかし、既に裁かれている者もいる」という事です。分かるようで分かりにくい言葉ですが、”救いに預かる信仰を一言であらわしている言葉”なのです。 

 カール・バルトという20世紀を代表する神学者は、”信仰”というものを次のように述べました…「信仰とは、立ち止まる事、沈黙する事、そして神を礼拝する事である」と。此処には、先の御言葉の様に、”永遠の命に預かる信仰の神髄”が記されております…即ち、”聖霊が聖書を通して、神を新しく教え、人が立ち止り沈黙して神を思い巡らし、そして、新しく教えられた神を信じ、そこに礼拝が生まれる”のです…マリヤがお腹に神の御子を宿した事を御使いに告げられた時、驚き、そして思い巡らして礼拝した様にです。

 ”沈黙する”と言う事は、自分の人間的な思いとは違う、”神の言を聴いて、その告げる言葉に驚き思い巡らしている姿”です…その事が、ヨハネに3章の1節以下の、ニコデモと主イエスとの対話に現れているのです。

 ニコデモはユダヤ人の指導者でした。政治的な指導者であり、それは宗教の指導者である事も意味しておりました。ですから、立場があったニコデモは、昼間でなく夜にこっそりイエスを訪ねたのでした。

おそらく、この時ニコデモは、「主イエスにあったら何と言おうか?」と考え抜いて訪問しただろうと想像できます。しかし、主イエスにお会いした途端、”主イエスの言葉によって、全く思いもかけない対話の中に引きずり込まれて行った”のでした。

 主イエスは、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見る事はできない」と言われたのです。予想だにしない、理解できない、神からの言葉でした。

しかし、始めの内、ニコデモには、この主イエスの御言葉は「何故、あなたは新しく生まれようとしないのだ」と責める言葉として聞こえたのではないかと思います。何故なら、ニコデモには直ぐに、「人は年をとってから生れる事が、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と答えたからです。

この様な応答…一見筋が通っているように見えますが、”一度生まれて、再び生まれ直す”というおかしな事を言ったのは、自分を弁明する為に慌てて語っただったからです。

 理屈にもならない言葉を、”屁理屈”と申します。そこで主イエスは、その屁理屈に対し、すぐに答えられたのでした。「新しく生まれ変わるには水と霊とによらなければそれは出来ない…神の霊によるのでなければ、誰も生まれ変わって神の国に入る者となる事はできない」と言われたのです。

”自分の思いを超えた、このような神からの言を聴いた時、さすがのニコデモも言葉がつまり沈黙した”のでした。それまでニコデモはしゃべり続けていたのでした。”人は一度黙る経験なくして、心に信仰告白は生まれてこない”のです。

 ”この後ニコデモは沈黙して去って行き”ました。再び登場したのは、”主イエスが十字架から下ろされた時であります。しかし、その時ニコデモはしゃべらないのです。黙ってイエスの肉体を引き受けて、埋葬の手続きを取った”のです。

 ミケランジェロの素晴らしい彫刻に、”十字架から下ろされたイエスを抱いて、母マリアが悲しみにくれて倒れそうになるのを、その背後からニコデモがしっかりと抱きかかえている”、見る者を圧倒的する力を持った作品があります。”ニコデモは、その時、黙ってイエスとその母を受け止めていた”のでした。ここに”聖霊に導かれ、キリストを礼拝しているニコデモの姿がある”のかもしれません。

 このロ−マの信徒への手紙は、キリスト教会最初の伝道者パウロが書いたものです。彼は毎日〜ロ−マで「十字架による救い」の説教をしておりました。そこで何時も「何故、そんな話が信じられるのか?」という言葉を聴いたのでした。それは”福音について聴く姿勢のない者が、自分の「信じたくない思い」を正当化する言葉”でありました。パウロはこうした問いと、日々戦って来た事が、このローマ3章1節以下に反映しているのです。

 先程から、少し品のない”屁理屈”という言葉を使って参りましたが、それが、この5節の、「人間的な言い方」という言葉の事なのです。8節では、「ある人々はそしっている」と書いています。ここで言う「人間的な言い方(屁理屈)」には、こうした”そしりや軽蔑”が含まれるのです…何故なら、”相手の言い分を軽蔑して、自分を正当化しようとする言葉”だからです。

 パウロは、人間的な理屈(屁理屈)をこねる人々に対し、5節で「もし,私達の不義が、神の義を明らかにするとしたら…怒りを下す神は不義であると言うのか」と言ったのでした。それはこういう事です。「確かに、私共の罪を赦す所に、十字架の恵み(神の義)が現れる…しかし、だからと言って、罪を犯す事が良い筈はない…罪に対して神が怒られないと思っているのか?」と言う事です。

 パウロは8節で、こうも言いました。「『善が生じる為に悪をしよう』…こういう者達が罰を受けるのは当然です」と…。つまり「意識的に罪を犯し続ける者を神は必ず審かれる」と言ったのです。

 仏教の親鸞の教えの中に、「善人なおもて往生遂ぐ、まして悪人をや」、という言葉があります。「善人が救われるならば、まして悪人がすくわれるのは当然だ」というものです。仏の慈悲を説いた教えです。聖書の教えと似ています。

それを日本人もユダヤ人のように、「それなら善人である事の方が損だ。悪に徹した方が仏に近くなる、慈悲に包まれる」と誤解したのでした。

 吉祥寺教会の竹森満佐一牧師は、イスカリオテのユダのイエスへの裏切りの物語を通してこの所を次のように説明されました…「ある人々は,イスカリオテのユダの裏切りによってイエスが十字架につけられ、我々の救いが起こったのだから、ユダが罰せられるのはおかしいと言いますが、このような人は信仰の一歩から見当違いをしているのです。ユダ自身がキリストに対する、自責の念で首をくくって死んだ事を忘れているのです」と…。

竹森牧師は、この様な激しい言葉をもって「人の罪(不義)が、神の義(十字架の赦しという恵み)を表すから、罪を審く神は間違っている」という論理を論破されたのです…”罪を犯した後、人は自責の念に苦しむ”からです。

 何度か申し上げて参りましたが、「神の義」というのは、「人間を赦すと契約された神の業=十字架の赦し」の事であります。”神は一人子を十字架に架け…これ以上にない真実を貫いて下さいました。神は契約を果たされた”のです。”残るは人間”です…”契約を重んじられる神は、不義を貫く人間を見過ごされる御方ではない”のです。

 そんな神を思いますと、”私共の心は恐れに覆われて”しまいます。しかし、罪に対する恐れは大切なのです。何故なら、”人はそこで、はじめて礼拝する心を知る”からです。

ヨハネ3:16−18に「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である…御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあります…ここに”神は、罪を開き直る人は既に裁かれている。しかし、罪を悔いる人、或いはその弱さの中にありながらも、十字架の赦しを求める人に対しては、神は、もう1度、沈黙を破って来て下さり、心の中に十字架の赦しという神の栄光の輝きを示し、その人を、ありのままで受け入れ、愛し、赦して下さる”のです。

  私共は、カール・バルトが、「信仰とは、立ち止まって、沈黙して、礼拝する事」と言ったように、神の言を聴き、沈黙して神の愛と、自分の罪と十字架の赦しを思い巡らし、神が示して下さる「私の為の十字架」を仰ぎ見て礼拝するのです。礼拝の場で神の御前に立つのです。そして、そこで神と共に生きる者とされた恵みを知る”のです。

祈祷> 父なる神様。この朝、私共は共にあなたの御言葉に聴きました。そして如何に、自分は屁理屈を言って、あなたを拒否し、罪に開き直って行く生活を送ってきたかを思い起こしました。この朝、そうした、私共の罪を赦してくださいますように。私どもの不誠実が続く所で、あなたの真実が貫かれて行く為に、今、あなたの御言葉を沈黙して思い巡らし、改めて深く感謝を献げる礼拝の場を体験させてくださいますように。
 聖霊によって御言葉に生き、柔らかな心で、今憎んでおります者をもう一度赦して受け入れ、今躓いている道に、新しく勇気をもって立ち直っていく事ができますように。
 あなたのみ霊を豊かに与えてください。このへりくだった思いの中で、聖霊に示される御言葉によって信仰の道へと導いてくださいますように。
 弱っておられるお1人〜を助け導いてください。また午後にもたれる、屋根修繕と壁塗装の話し合いと契約の上にも最善のお導きを与えてくださいますように。
          主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。 アーメン