「私の福音」
ロ−マの信徒への手紙2章12−16節
2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
ロ−マの信徒への手紙8章34節
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「私の福音」
ロ−マの信徒への手紙2章12−16節、ロ−マ8:34.2003.10/12
今朝はロ−マ2章12−16節から共に神の言に聴いて参りたいと思います。
この箇所は1度読んだだけでは理解困難な所です。理論好きのロ−マ人に対して、パウロが論理で律法と福音について語った所だからです。此処を読みますと、”律法という言葉が何度か出てくる事”に気づきます。
この律法という言葉は、日本の大部分の国語辞典には載っておりません。”律法は、神が神の民として選んだユダヤ人に与えられた掟だから”です。”律法”と言いますと窮屈に感じ拒否反応を覚える方もおられるかも知れませんが、本来,”律法は神の愛のプレゼント”だったのです。
律法を”門限に譬えてみる”と分かりやすいかも知れません。誘拐事件が多発している昨今ですが、誘拐事件というのは、どれだけ早く警察が動き出せるかに救出の鍵がかかっていると言われます。誘拐された子供の家に門限があって、遅れる時には必ず電話を入れる習慣があれば、もし誘拐された場合、子供からの連絡がなければ家族は直ぐに警察に電話が出来、それが救出につながるのです。”家庭の決め事は家族を守る親の愛”なのです。
元々”律法も、ユダヤ人を守る為の神の愛であった”のです。しかし、歴史は、”人間は律法を守り切る事が出来ない事を証明してしまった”のでした。そして、ユダヤ人にとって、”律法は罪を指摘して、責め、自分達を縛り付けるものとなってしまった”のです。悲しい事ですが、それは、”私共自身の内にも見出す事の出来るもの”なのです。そして,忘れてならない更に悲しい事は、”神は、律法を守る事の出来ない人間の為に、独り子イエスを、十字架に架ける決意をされた”事です。
もう1つ目に留まる御言葉がございます。16節の「私の福音」です…この朝は、この言葉から説教を取り継ぐように導かれております。この”福音”という言葉は、”救いの道が開かれた事を告げるグッド・ニュース”の事です…律法で救いに預かる事が出来なかった人間に、”信じるだけで無条件に救いの道が開かれた事を告げるグッド・ニュースが福音”なのです。
この福音についてテモテへの手紙2:8は語ります。「イエス・キリストの事を思い起こしなさい。私の宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」…福音に預かるには、「先ず、預言されて来た救い主キリストを思い見上げなさい」と言うのです。
”キリストの何を見上げるのか?”と申しますと、”私共の罪の為十字架で死に渡され、死を打ち破られて復活され、私共に永遠の命を与えて下さった主イエスを見上げる”のです。
この事をパウロは、「私共の福音」と言わず、もっと突き抜け、「私の福音」といったのです…”福音を我が事として経験したから”です。
土居教会でも、洗礼志願者に試問会を行うようになりました。役員の方々を前にして、洗礼志願者の方が、そこで「私の福音」を語ります。その方が経験した”主イエスが与えて下さった救いの喜び”を証し、教会を代表してその告白を役員会が聴きます。そして、”その方がキリストの躰である教会に加えられる洗礼式の為、祈りをもって備える”のです。
受洗志願者は緊張して試問会に臨まれますが、試問をする側も、”自分の信仰が問われている”のです。「私が今問うている、この福音は、私にとっても、私の福音となっているか?」と…。この「私の福音」という言葉は、”此処と、ローマ書の最後の部分にだけ出て来る言葉”なのです。”パウロは、この言葉を、溢れる思いを込めて大切に使った”のでした。
「私の福音」という事について、もう少し学んで参ります…”福音”は、「十字架の罪の赦しを信ずるだけで救われる」と言う、”キリストが開いて下さった無条件で、唯一の救いの道”であります…しかし、ヤコブ2:24では「…人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とあるのです…何と窮屈な御言葉かと思います。「福音と反対の事を言っている?」と思う方もいるかも知れません。しかし、”この言葉は決して福音と反対の事を言っているのではない”のです。
”救いの恵みに預かった者にとって、御言葉に聴き従う事は、神の愛に対する自由で喜びの応答となるから”です。それは”親の愛に育まれて育った子が、親に喜んで貰おうと進んで良い子になろうとする姿”に譬えられると思います。
”強いられた律法は、窮屈で自分をも救う事も、生かす事も出来ませんが、福音は、自由の中で、人を進んで神の愛へ応答する者と造り変えるのです…そして、この「神の御言葉に聴き従う生き様」は、自分を、そして隣人を生かして行く”のです。
更にヤコブ1:23−24では、”福音を私の福音として経験しない者の姿”について更に述べます…「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」と…。
此処に”鏡の比喩”が出て参ります。女性はおそらく毎朝、鏡を見ると思います。「女性は鏡に映った自分を肯定的に見、男性は否定的に見る」という事を或る本で読んだ事があります…自分が写っている全体写真を見る場合、殆どの人は、真っ先に自分を見ると思います。そして、自分が良く写ってる写真が、その人にとっての良い写真なのです。
しかし、”認めたくない自分をハッキリ写す鏡”があったらどうでしょうか?…実は、この”御言葉こそ本当の自分の姿を照らし出す鏡”なのです…ヤコブの手紙が言う、「御言葉を行う人になりなさい」というのは、「御言葉の鏡に映し出された自分を認める人になりなさい。そして、あなたの罪への神の怒りは、既に十字架の主イエスへ下されているから、神の御前に安心して出て悔い改めなさい」と言うのです…それこそが”救いが与えられる、唯一つの道”だからです。
この「御言葉を聞くだけで行なわない人」の、「行わない人」というのは、”御言葉に指し示された良心の呵責を誤魔化す事”なのです…”神の愛を知りながら、神の言に背き続ける事は、良心の呵責を生むから”です。
私共が「人を裁くな」という御言葉があるのに拘わらず、他者を裁き怒っている時、自分が正しいと思って怒りをぶつけています。しかし、後で、”怒った自分が傷つく”のです…それは、”良心の呵責があるから”です。
その様に、”良心の呵責を誤魔化して生きる結果”について、15節は述べます「…彼等の良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じ事を示しています」と…宗教改革者のマルチンルターは、この15節を次のように解釈しました…「神の審判の御前で、聖なる神の御前で嘘を付けない自分の良心は、自分自身を弁護せず、自分自身を責め糾弾する」と…。
此処に「互いに責めたり弁明し合って」とありますが、これは、”神の御前で心の中の良心は嘘をついたり誤魔化す事に耐えきれず、自分自身を叫弾する”と言う事です…自分の良心は誤魔化す事ができますが、”最後の審判の場で、主イエスを誤魔化す事は出来ない”のです。
16節に、「その事は、神が、私の福音の告げる通り、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」とございます…一体、その時、”何をキリストは明らかにされるのでしょうか?…それは”イエス・キリストが私の弁護人となって下さる”という事なのです。
パウロは、キリストの十字架を「私の為に死んで下さった」と信じた時、”罪が赦された事だけでなく、良心の呵責からも解放された”事を体験致しました…それ故、その「イエス・キリストが、最後の審判の時にも、私の弁護者となって下さる事を悟ったのでした。
十字架という神の赦しは、底無しの深い神の赦しであって、それは、自分の罪も飲み尽くす赦しである」と確信したのです。パウロは、”良心の糾弾よりも、無限に大きいキリストの赦しに、救いの時に預かり、やがての日にも預かる事が出来る”事が分かったのでした…だから「私の福音」と語ったのです。
最後に、ロ−マ8:34を開きます。「誰が私達を罪に定める事ができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達の為に執り成して下さるのです」。
此処でパウロは、十字架の主の、「父よ彼等をお赦し下さい。彼等は何をしているか分からないのです」と言う祈りこそ,「私の為の、私の福音」であり、今もキリストが自分を執りなして下さっており、そして、最後の審判の時も、主イエスが「父よ、私が流したこの十字架の血潮のゆえに、この人をお赦し下さい」と、”執り成して下さる”と言えたのです。
世の他の何処にも無い、この朝、共に”「最後の審判への安心、平安、希望を約束する、この福音を私の福音として下さい」と求めて祈りましょう。
祈祷>イエス・キリストの父なる神様
この朝、私共は、十字架の主の、「父よ彼等をお赦し下さい。彼等は何をしているか分からないのです」と言う祈りを,「私の為の、私の福音」として与えて頂いている事を改めて教えられました。そして、最後の審判の時も、主イエスが「父よ、私が流したこの十字架の血潮のゆえに、この人をお赦し下さい」と、”執り成して下さる”事のお約束の中に生かされている事を語って頂きました。…今、私共1人〜が、世の他の何処にも無い、”「最後の審判への安心、平安、希望」の約束に生かされている事に感謝致します。主イエス・キリストの大いなる恵みの中で、私どものほんとうに大きな罪をも、十字架の底なしの赦しに飲み尽くして頂いて、赦され、小さき者を、父なる神、あなたの前に立つことを喜びとする者として下さいました。
ですから、だからこそ、今ここで生き、またここで死ぬことができます。主が来てくださる日を、待ち望む事ができるのです。教会が、どんなに醜い争いを示しても、この世界が、どんなに絶望的な道を歩んでも、私どもは、望みを捨てないで生きることができます。
ただ、あなたが造られた自分という人間の本当の美しさに生きる事ができるように…。聖霊と良心を悲しませないで歩めるように、聖霊様を心の主人としてお迎えして、御言葉に聴き従う歩みを与えて下さい。御言葉に正しく立ち、御言葉に望みを抱いて、日々、あなたの掟に生きることができますように。主のみ名によって祈り願います。
賛美大会を祝して下さり感謝致します。参加された方々が主イエスの力によって歩む事が出来ますように。賛美大会で肺気胸を患われたM姉の術後の痛みの癒しと、M兄姉をもお癒し下さい。
主イエスの御名によってお祈りします。 アーメン
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