「招かれたザアカイ」
ルカ19章1〜10節
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「招かれたザアカイ」 ’02 9/8 ルカ19章1〜10節 千葉聖子
今朝の箇所は、とても良く知られたザアカイの物語です。教会学校でも良く話されます。
ザアカイは、徴税人の頭でした。ユダヤ人でありながらも、当時ユダヤを支配していたローマ政府から雇われて、税金の取り立てをしていました。
当時の徴税人は人々から不正に規定以上の税金を取り立てて私腹を肥やしており、当然町の嫌われ者でした。ザアカイは徴税人の頭になる位ですから、少々気が荒く、強引な人物だったろうと思います。自分に逆らう者はいなく、人々は自分にペコペコ頭を下げていました。内心は反発していたでしょうが…。
しかし、本当の友人がいないザアカイの心の奥は、孤独であり、寂しい日々を送っていただろうと想像できます。自分の最も深い所で、孤独に耐えられない思いを抱えていた時、自分の様な、徴税人の仲間と仲良くし、一緒に食事までなさった方がいる。「その方がエリコの町を通られる」と聞いてじっとしておれなかった。多分一目主イエス様を見るだけでも、自分のどこか疼いている傷が癒されるのでは、と思ったに違いなかったのです。
人は本当に辛い時、この私の事を理解し分かってくれる人に出会うだけで心が軽くなります。ザアカイは、主イエス様にその事を感じていたのだろうと思います。
ザアカイは、イエス様に会いに行った、というより一目イエス様を見に行きました。
ところが「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。
ここは、子供達がとても喜ぶ場面です。子供達も大人達が集まっている所へ行って「何だろう?」と見ようとするけど、見る事が出来ないくやしい思いをしているのしょう。ザアカイと自分がダブる様です。
しかし、ザアカイは諦めずに、先回りをして道沿いにあった、いちじく桑の木を見つけてそこによじ登ってイエス様を見ようとしました。今の子供達だと、親から「危ないからやめなさい」と言われてしまいそうです。大の大人が恥も外聞もなくやってしまうほど、ザアカイはイエス様を見たかったのです。
その気持ちは、ザアカイが「イエス様に会いたい」と思う前から、主イエス様に届いていました。5節を見ますと「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい」と主イエス様はザアカイに語られたのです。
あたかも以前からザアカイの名前を知っていたかの様に、またザアカイが木の上にいるのを知っていたかの様に、主イエス様は声を掛けられたのでした。
新共同訳では「ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエス様がお願いする訳になっていますが、原語では「泊まらなければならない」と断言しているのです。
「今泊まる事にした」と言うのではなく、前から「あなたの家に泊まると決められていた」と言うのです。そこには神様の意志がありました。主イエス様は神様の御意志に従ってザアカイを尋ね出されたのです。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを家に迎えました。
この夏、我が家にも客人が次々と来られ、数えてみると17名もの方々が来られました。
だいたい2〜3泊され、民宿状態でした。一緒に食事をし、また夜は色々語り合う事が出来ました。その中で、自分のこれからの進路を迷っているお話を伺ったり、家族で抱えている悩みをお聞きしたり、普段ではなかなか話せない深い所まで、話し合い祈り合う事が出来ました。寝食を共にするという事は、心が開かれて行くものだと思いました。
ザアカイも、主イエス様を喜んでお迎えして、主イエス様と共に食事をする中で、この方こそ真の神様、救い主であり、自分の孤独を癒すものが主イエス様にある事に気付いたに違いありません。
ザアカイは、イエス様を家にお招きましたが、しかし、イエス様と食事を共にする中で、実はザアカイがイエス様に「招かれていたのだ」という事に気付かされたのです。
食事に招く、と言う事は「招いた主人がその客を生涯守り抜く」と契約する事でありました。家こそザアカイの家でありましたが、主人は主イエス様であり、ザアカイは主イエス様に声を掛けられた時から「招かれた者だった」のです。
それは、今迄罪の中にどっぷりつかり、孤独であったザアカイにとって、どんなにか嬉しい事であり、この方こそ私を救って下さる方、と心から確信したに違いありません。
私達は、今礼拝に来ています。しかし、それは私達が意識してもしなくても、主イエス様が私達を、この礼拝に招いて下さっているのです。そして、この礼拝の場で、私達に「あなた方を、私は守り抜くよ」と約束して下さっているのです。私達は、毎週この礼拝の場でその約束を、受け取っていくのです。
さて、その光景を見ていた群衆は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言ってつぶやいた、とあります。主イエス様の行動を非難したのです。しかし、ここで主イエス様が何の為に来て下さったか、を言い当てています。それは「罪人を招く為」でありました。ザアカイの耳にも、もちろんこの群衆の呟きは聞こえました。
しかし、ザアカイは反論もせずに「そうだ、罪人の私がイエス様に招かれたのだ」と立ち上がって主イエス様に言ったのです。
8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」律法では、自発的に損害を弁償する場合は、損害額+20%で良い、となっています。また、盗んだ物を返す時でも、2倍にして償う、という規定がある様です。ザアカイの「4倍にして返します」という申し出は、律法以上の償いでありました。
私などは、自分の財産がなくなって破産してしまうのではないか、と心配してしまいますが。ザアカイにとっては、お金よりももっと大切なものを得た喜びがあったのでしょう。
ある本には、多分ザアカイはこの後、税金を不正に取り立てていた人々の所へ行って、1軒1軒、謝って、またイエス様との出会いを証しながら、お金を4倍にして返して行っただろう…一人一人返して行く中で、ザアカイは本当の自分を取り戻して行っただろう…と書いてありました。
私も学生時代、大阪で電車通学をしていました。定期券を買うのですが、決められた区間以上の所へ、その定期を使って行ったりしてました。救われ献身を決意した時、どうしてもそれが心にひっかかり、一つ一つ駅に行って乗り越したお金を払いに行きました。そうせずにはおれなかったのです。そのままでは、何か借金をしている様な気持ちでした。ですから、この時のザアカイの気持ちが良く分かります。
主イエス様は、ザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。「ザアカイに来た」というのではなく、「この家に来た」と言われたのです。ザアカイが主イエス様を信じて救われた、という事は、神様の祝福がこの家に与えられる、そしてザアカイの家全体の救いの歴史が始まる、という事なのです。
ザアカイはイエス様が十字架に架かられ昇天した後、教会の牧師になったろう、と言われています。まさに、救いがザアカイの家に留まる事なく、多くの人々へ与えられる事になったのです。
この教会にも、家族の中で一人だけ教会に来られている方もおられます。しかし、家族の代表者として、教会に来られる時、主イエス様は「あなたの家に救いが来ている。あなたの家に祝福が始まる」と約束して下さっているのです。
「救いがこの家に来た」と言われる主イエス様の祝福の言葉を信じて行きたいと思います。
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