「王である主イエス

マルコ11:12ー19
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


   主の怒りの意味
」 マルコ11:12〜19、02,9/29

 今朝の聖書の箇所であるマルコ書11章12〜19節は、「いちじくの呪い」と「宮きよめ」と呼ばれる、おそらく皆さんが、主イエスに対してお持ちである、優しく穏和な方と言うイメ-ジと反する所です…共に、この「主イエスの怒り」から神のメッセージを聴き礼拝を献げます。

 時はエルサレム入城の翌日でした…群衆の大歓迎を受け、子ロバに乗ってエルサレムに入城した主イエスは、その晩一旦エルサレムから出てベタニヤで休まれました。

そのベタニヤを出た時空腹を覚えられたのでした…そんな時、主イエスの目に緑の葉が生い茂るイチジクの木が映ったのです。主は、その木に近づいて行きました。しかし、実を稔らせていなかったのです…”季節で無かったから”です。

 それに対し、主イエスは考えられない行動をとられたのでした…怒りを込めて「今から後、何時迄も、お前には実がならない様に」と呪われ、たちまちイチジクの木は枯れてしまったのです。時は春でした…イチジクの実がなるのは秋の筈です。なのに何故、主はこんなに怒られたのでしょうか?…どうしても、主が、無理強いする短気な方だとは思えないのです。

 ”その訳は、15〜19節の「宮きよめ」の出来事の中にある”のです…神殿を訪れた主イエスは突然怒りだし、他の福音書と併せて読みますと、縄の鞭を造って皆を追い出し、商売に使っていた台をひっくり返し、店を壊すような、”大暴れをされた”事が分かって参ります。

 イスラエルでは、”年3回の祭りの時に、神殿への巡礼が定められ”ておりました。そして、多くの貧しい巡礼者は、献げ物として鳩を献げたのです。はじめは家から鳩を持って来たと思われますが、鳩を持って旅して来る事の大変さを見た”商人達が、神殿で鳩を手数料を取って売るように成った”のです。
 更に両替の問題もありました…当時は、”年に1度、税金を神殿で献げなければなりません”でした…そして、それはユダヤの通貨と定められておりました。しかし、当時のイスラエルは、ローマの支配下にあった為、ローマの通貨が使われていたのです…そこで、”両替人が手数料をとって両替をしていた”のでした。

 そんな彼等に対して、”主イエスは「神殿を強盗の巣にした」と怒られた”のでした…彼等とて生活があります。巡礼者の邪魔をしてではなく助けをして生活していたのです…いちじく同様、何故怒られたのかさえ分からなかったのではないでしょうか?

 実は、そこに意味があるのです…この「宮きよめ」の出来事の中で、主イエスが語られた事こそ、主の怒りの意味なのです…11:17「…『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』所が、あなた達は、それを強盗の巣にしてしまった。」

 ”「神殿を強盗の巣にしてしまった」事を主は怒られた”のです…”神殿は「祈りの家」か「強盗の巣」か、どちらか?”だというのです…中間は無いのです。私共は、この事をしっかり心に留めなければなりません。

 強盗は、計画的に準備を致します…強盗は、相手を殺してでも、利益を得ようと致します。相手を傷つけても平気なのです。先週も北朝鮮の拉致事件についてもお話し致しましたが、自国の利益の為に
、他国の人々がどんな思いをしても構わないとして行われた拉致事件…北朝鮮側が、「日本人の一部がが拉致され、長い期間に死亡した問題をもって感情的に極大化し…両国間に敵対意識を吹き込む大々的なキャンペーンを繰り広げている」と声明を出しました…この拉致の本質も強盗と同じです。

 この”神殿で商売をしていた人々も、貧しい中で巡礼に来た人々から、高い手数料をとり、実際その後、巡礼者達は、大変な生活苦を強いられました…しかし、人が、どんなに苦しもうと構わなかったのです…その心を主は叱られた”のでした…”自己中心は、真実な礼拝が失われた結果”だからです。

 主イエスは、更にそこで「祈りはあるか?」と問われたのです…言い換えれば「祈りながら強盗が出来るか?」と言う事です…”祈りながら自分の利益だけを考えられる事は出来ない”のです。

 更に言えば、主イエスの言われた「私の家」と言うのは、「キリストの愛と恵みが支配する所」の事です。
Tコリント6:19ー20に「知らないのですか。あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」とございます…今は、”心がキリストを礼拝する神殿となっている”のです。

”キリストを主として心に迎える”所に、”礼拝が生まれ、祈りが生み出される”のです…そして、そこに、”キリストの愛の支配が生まれる”のです。

 実は、この「宮きよめ」の行為を祭司長や律法学者達は非常な驚きを持って見つめ、本気で主を殺そうと謀り始めたのです…”宗教家達は、礼拝の命が回復する事よりも、自分達の権威と面子が潰れる事を最も大きく受け取った”のでした…”その結果、主イエスを殺す決心をし、主を死にあたる罪人として裁いた”のでした…イチジクへの呪いの比ではない理解できない裁きでした。

 イチジクの葉の成る季節に、小さな実がなっていなければ、その年、大きな実を結ぶ事は無いのだそうです…”主イエスに呪われたから、イチジクが実を結ばずに枯れたのでは無かったのです…既に命尽きた木だった”のです。

 主イエスは”イチジクへの呪い”を、そうした”理不尽な人の裁きの象徴”として利用されたのでした…そして、それに対して、”主イエスは「宮きよめ」において、神の審きを示された”のです。

 人は”祈る時、「宮きよめ」の様に審かれる”のです…”「痛む隣人を他人事としたままで、何故、祈れるのか?」と自己中心を主イエスに問われる(審れる)”のです。

外国の教会では、礼拝式の中には必ず、全員起立して祈る「とりなしの祈り」があるそうです…”祈りは「真の礼拝という実を結び…他者と共に歩む共同体(キリストが愛をもって支配なさる躰)」を生み出す”事を表わしているのです。

 祈らなければ、主に担われている事も分からず、自分で何もかも背負っている気負った心となり…そして、心から神を締め出し、自分の意見を通す為に御言葉さえも利用して、共に生きる人の心をも潰してしまう事さえあるのです…その姿を強盗というのです。これは厳しい事です…”祈りが無い信仰の家(心の神殿)は、強盗の巣になる”のです。

 主イエスが、実る季節ではないイチジクに対して、「常に実りを」とお求めに成られたのは、”「祈りの家」と言う実だった”のです。

立派な神殿を建て礼拝を献げていたイスラエル…しかし、そこに”中身「祈りの家」は存在しなかった”のです…”主イエスは、「祈りという実を結ぼうとしない神の民は、あのイチジクの様に滅んでしまう」と警告された”のでした。

 それは現実になりました…AD70年、工ルサレムはロ−マの新皇帝に攻められて陥落し、都は炎上し、女性が自分の赤ちゃんを殺して食べる程に追い込まれ、町中に死体が散乱し、道に人々の血の川が流れたのです。

 私共は、今、主イエスの御前で礼拝を献げております…そして、”ここで「あなたの礼拝は、日々の信仰生活は、祈りの家か?」と問われている”のです。

葉を繁らせているだけではないのか?実を結んでいるのか?…と御覧に成られ審かれる主イエスを覚え、”祈りを通して、私共の全存在が、この土居教会という主の共同体が、主イエスの愛に支配される所となる事を、何にも勝る喜びとしたい”と思います。