「見張りたもう神

出エジプト37:17ー24
37:17 彼は純金で燭台を作った。燭台は、打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁が一体であった。
37:18 六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付けた。
37:19 一本の支柱にはアーモンドの形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付けた。燭台から分かれ出ている六本の支柱を同じように作った。
37:20 燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付けた。
37:21 節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になっている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作った。
37:22 これらの節と支柱は主柱と一体をなし、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りであった。
37:23 次に、七個のともし火皿、芯切り鋏、火皿を純金で作った。
37:24 燭台とこれらすべての祭具は重さ一キカルの純金で作った。


エレミヤ1:11〜2
1:11 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
1:12 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


   見張りたもう神」  
出エジプト37:17〜24、エレミヤ1:11〜12,

 今朝の聖書の箇所は、神が御臨在なさる幕屋建設のご命令の箇所です。共に御言葉に聴いて礼拝を献げて参ります。

 神は、臨在の幕屋の中に、ロウソクを置く”七本からなる燭台”を設置する様に命じられました。”真ん中の一本と、両方から三本ずつ枝の出た燭台”です。 その両側の枝には「アーモンド」の花の形をした萼(がく)がついております。”アーモンドの花”は、バラ科の花で、果実は桃に似ているのだそうです…冬枯れの荒野にぱっと咲くアーモンドの花は、見る人々に、命と神の臨在を感じさせると言われます。

 涙の預言者と言われたエレミヤが、預言者として神に召命を受けた時、神は「エレミヤよ、あなたは何を見るか」(エレミヤ1:11)と問われ、エレミヤは「アーモンドの枝を見ます」と答えました。神は、その時「あなたの見た通りだ。私は自分の言葉を行なおうとして見張っているのだ」と言われたのです。

その時は、国が崩壊し、民がバビロンに連れ去られると言う最も暗い時代でありました…「神は守って下さるのか?」と思わずにおれない中、エレミヤはアーモンドの枝を通して、”今も生きて見張りたもう神を示された”のです。

 ”アーモンドの花がついた7本の燭台は、アーモンドの枝を示している”のです…更に、”7本の7は完全数”であり、そしてそれは、”神の言葉を行おうと、完全に見張っておられる神を示していた”のでした。

 しかし、現実には、「神が御顔を隠されている」と感じる事が多いのです。祈祷会でもお話し致しましたが、先週は歴史的な出来事がございました…日朝首脳の初会談です。

 小泉首相が、緊張して訪朝する映像を、こちらも緊張して見入っておりました。
 横田めぐみさんという方が、中学生時に北朝鮮に拉致され、その後、御両親がキリスト者となって祈り続けて来られた事を知っていたからです。祈りながらTVを見ておりましたが、残念な事に、午後、死亡のニュースが飛び込んで参りました…生きていれば37歳だったと言う事です。子供もいるとの事でした。

 更に、かつての大韓航空機爆破に関わったキムヒョンヒさん(現在、キリスト者)に日本語を教えた、リ・ウネと言われる田口八重子さんの死亡も公表していました…驚くべき情報公開でしたが、機密保持の為に抹殺?…と思える程に不透明さが目につきました。
 それ程、納得の行かない残酷な結果でした。「御両親の祈りに神は御顔を隠されたのか?」…現実には、”神を信じる者が災いに遭い、悲しみ、悪が勝利する様に思える事が多い”のです…あくまでも近視眼的に見てですが…。

 その様な現実にあって、神を信じて生き抜く事は決して優しい事ではなのです。信仰を弱い者の行為と評する人がおりますが、”現実を信仰をもって生き抜く事は厳しい”のです。

 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの御両親が、娘さんの死亡の知らせを受けた後、キリスト者として証をされながら、心ない日本人に迫害を受けている在日朝鮮人学校や生徒を心配され、更に「娘の人生は意味あるものだし、そうして行きたい…」と話される内容に、司会者が驚き敬服していました…これは弱者の姿ではありません。

 先週の秋期聖会で創世記37章以下のヨセフの事が語られました。

 ヨセフは、皆さん御存じの様に、ヤコブの息子でした。12人の兄弟は4人の母からなる異母兄弟で、下のヨセフと末弟のベニヤミンの2人は、父ヤコブの愛した妻ラケルの子であった為、特別に寵愛された”のです…ヨセフも、自分だけは特別だと鼻にかけていたようです。

 そんなヨセフを嫉妬した兄達の感情は、やがて、怒り、憎しみに変わって行ったのでした…ある時、父の命を受けて野で羊を飼っていた兄達の所に訪れたヨセフは、神に示された夢を語り出しました…それは、「夢の中で、私達が畑で束を結わえていると、私の束が立ち上がり、兄さん達の「束が」私の「束」にお辞儀したのです…。」というものでした。

それを聞いていた兄達の心は極まり、”ヨセフを殺す決心を固めた”のでした。しかし、いざ殺そうという時、長男ルベンは躊躇し、兄弟達を説得し奴隷として売る提案をしたのです…ヨセフは、売られて行ったエジプトの地で総理大臣迄なり、大飢饉が襲った時、裏切った兄達や、祖国イスラエルを救ったのでした。

 そんなヨセフの生涯は「どうして?」に次々と見舞われた生涯でした…そんな中、彼を導いたのが、”神の臨在信仰”だったのです…今まで何不自由なく生活をしていたヨセフは、奴隷として売られた、異国の地のポティファルの家で、初めて最低で惨めな生活を味わったのです…しかし、聖書は、”その直中で、ヨセフは主と共にいた”と語るのです。

 主人ポティファルは、そんなヨセフに他の奴隷と違うものを見出し、少しずつ責任を任す様になって行き…やがて総支配人に迄なったのでした。”「どうして?」と思う、その所に神がおり、見つめ、導いて下さる事を信じ喜ぶ信仰がヨセフを導いた”のです。

 その後ヨセフは、主人の留守中に主人の妻に誘惑され、そこでも、”「主の臨在信仰」によって誘惑に勝利した”のです。しかし、逆恨みした妻の嘘によって、ポティファルの怒りを買い、ヨセフは調べも受けずに投獄されたのでした…普通なら、此処で、”恨み辛みによって、神を見失ってしまいます”。

 しかしヨセフは、”尚も、共におられる神を信じて、黙々と囚人の仕事をこなして行き”…何と、獄中でも看守の仕事を任される様になったのです。

 そんな中、神の導きによって、夢を解き明かす機会が与えられ、牢獄から解放されるチャンスが訪れました…しかし、助けた給仕役の人がヨセフの事を忘れ、王にとりなす事をも忘れて…”再び「どうして?」の中に突き落とされた”のでした…こんどこそ失望し”神を恨んでも仕方がなかった”のです。

 しかし、”神の視点から見れば、それらの時は、ヨセフの神の臨在への信仰が成熟し、ヨセフの高慢な自我が聖められ、エジプトの総理大臣となる器として育って行く時間だった”のです。

 ヨセフが、”信仰の器、総理大臣の器となる為、此処までの一切が一つも無駄でなかった…
”器が成熟した時”、神は、エジプトの王ファラオの夢を解き明かす機会をヨセフに与えられました…そして、やがてヨセフは、エジプトの総理大臣へと導かれて行くのです。

ファラオの夢が現実となり、大飢饉が中東一帯を襲った時、ヨセフは、”神の摂理”の答えを見る”のです…ヨセフの指導の下、飢饉に備えて食料を蓄えていたエジプトは、祖国イスラエルを飢饉から救い、ヨセフ自身の家族をも救ったのでした。

 ヨセフは、創世記45:8で「私を此処へ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と信仰告白しています…”神の言を行おうと見張っていて下さる神を知り…兄弟達の罪を背負った”のです。

 ”人間が最も克服する事が困難な闘いは、憎しみの感情との戦い”です…もし、この時、”兄弟への深い恨みが残っていたら、家族を救う事は出来なかったばかりか、絶好の復讐の時となった”のです…先の拉致問題も、最後の最後は、”赦すしか道が無い”と言っておりました…どんなに困難な道かと思います…それは、”人間に出来る業ではない”のです。

 ヨセフは、”主が共におられる信仰によって「聖め」に預かっていた”のです…そして、兄達の”罪を負い赦す”という神の奇跡を生んだのでした。”自分の言い分を訴えている内は、赦せないのです…一切を御存じである主に委ねて、相手の罪を自分が負う(十字架)所に赦しが生まれるのです(聖め)”。

 祝福は、そこから始まりました…神は、この”ヨセフの信仰”を用いられ、兄達の罪さえも用い、中東一帯を飢饉から救い、歴史を支配なさる(神の言を行おうと見張っておられる)神を現されたのです。

 ”神は、私でなければ出来ない仕事をさせようと、その境遇に置いて下さっているのです”…「どうして?」と思う、”強いられた不遇な時”こそ、「今、神の言を成し遂げようと見張っている神」への”臨在信仰が問われる”のです。

 エレミヤは、アーモンドの枝を見て…神の言の成就を見張りたもう神を示されたのでした…今、私共は、”十字架の主イエスを仰ぐ”のです…”神を仰ぎつつ、十字架で私共の罪を背負い死んで下さった主を…そして、預言されていた救いの道の完成を見張っておられた神が、主を死から甦らせ、救いを完成された”事を。ヘブル12:2「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」…私共も、”今おる所に遣わされた神の摂理を信じ、十字架の主を仰ぎ続けて行く時、神に与えられた使命を全する事が出来る”のです。