「心の聖所

出エジプト36章1〜7節
36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および知恵と英知を主から授けられ、聖所の建設のすべての仕事を行うに必要な知識を与えられた、心に知恵のある者は、すべて主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない。」
36:2 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および主から心に知恵を授けられた、心に知恵のあるすべての者、すなわち、心動かされたすべての者をこの仕事に従事させるために呼び集めた。
36:3 彼らは、イスラエルの人々が聖所建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、モーセから受け取ったが、人々はなおも、毎朝、随意の献げ物を彼のもとに携えて来たので、
36:4 聖所のあらゆる仕事に携わる知恵のある者は皆、それぞれの仕事場を離れて来て、
36:5 モーセに言った。「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます。」
36:6 モーセが宿営に、「男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」との命令を伝えさせたので、民は携えて行くのをやめた。
36:7 既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった。


使徒言行録7章44〜51節
7:44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
7:45 この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。
7:46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、
7:47 神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
7:49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
7:50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
心の聖所」  
出エジプト36:1ー7、使徒言行録7:44:ー51

*出エジプト36:1「ベツァルエルとオホリアブ、および知恵と英知を主から授けられ、聖所の建設の全ての仕事を行うに必要な知識を与えられた、心に知恵のある者は、全て主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない」。

 今朝は、この神の言を共に聴きつつ、共に礼拝を献げて参ります。これは,神が住まわれる聖所建築にあたり、モ−セがイスラエルの人々に告げた言葉であります。

 いよいよ「神が御臨在(共に住む)下さる」とお約束下さった聖所建築が始まった時、民は、期待と喜びを顔に浮かべながら、おのおの自発の献げ物をモーセのもとに携えて参りました…。所が、その”献げ物が余りにも多かった”のです。工事の人々は仕事を止めて、モーセに向って「この民は、主がお命じになった仕事の為に必要以上の物を携えて来ます」と訴えたのでした。

 そこでモーセは命令を発し、「男も女も、もう聖所の為に献げ物をするに及ばない」と言ったのです…それで民は、やっと携えて来る事をやめたのです。欲のない話です。”献げる”という事は”神の賜物”です…土居教会も、この”献げる”という素晴らしい信仰の賜物を継承している教会であります。

 或る方から「大切な友人には、時間を割き、お金を使う」という言葉をお聞きした事がございました。ナルホド!…と思いました。”人は、愛する相手の為ならば、自発的に「会いたい。そして、あれをしてあげよう。あれをプレゼントしよう」と思う”のです。

実は、この事こそが、”恵みに生きる世界”なのです…”恵みに生きる世界”は、”律法から解放され愛に生きる世界”です。”律法”は”「〜しなければならない」という掟に縛られる世界”ですが、”愛の世界”は、”「〜してあげたい」という思いを、自発的に生み出す”のです。決して強いられてでも縛られてでもありません…この時、神の民は、”神への愛によって自発的に献げていた”のでした。

 「せっかく多くの献げ物が集まったのだから、もっと大きな聖所を建てればよいのに」と思うかも知れません…しかし、”聖所は、全て主が命じられた様に築かれなければならない”のです。

 何故なら、その、”「全て神の命じられた通りに」と言う所に「聖所の生命がある」”からです。たとい大きなものを建てても、”主が命じられた以上のものであれば、それは命を失い…ただの”自己顕示欲の手段としての建造物に成ってしまう”のです…そして,その時、聖所は、”神の御臨在下さる所でなくなってしまう”のです。

”キリスト者は心に聖所を建てる者”であります…それは、”キリストを心にお迎えし、キリストを主とする生活を建て上げる”事なのです。

 では、私共は、はたして、”主が命じられた様に心の聖所を建て上げているでしょうか?”…使徒言行録7:49〜51に「主は言われる。「天は私の王座、地は私の足台。お前達は、私に、どんな家を建ててくれると言うのか。私の憩う場所はどこにあるのか…頑なで、心と耳に割礼を受けていない人達、あなた方は、いつも聖霊に逆らっています。あなた方の先祖が逆らった様に、あなた方もそうしているのです」とございます。

 聖書は、「人は主の御心に従おうとするよりも、自分の都合の方を優先している事が多い」と言うのです…その様な信仰生活のままですと、”何時しか私共の信仰は、主を見上げるものでなくなり、神が生きて働く所ではなくなる”のです…”神の臨在の喜びを失ってしまう”のです。

 主イエスは、一方的な恵みによって、クリスマスの夜に、糞やよだれで汚れた飼い葉桶の中に来て下さった様に、”私という、このいやしい者の心に来て下さった”のです…私共がすべき事は唯一つ”主イエスが御臨在下さる心の聖所を守り抜く事”なのです…”神が共におられない信仰生活ほど虚しく悲惨なものはない”からです。

 多くの日本人の宗教に対するイメージは、”祈願”であると思います…それは、”神様を、人間を満足させる道具、人間の僕とする人間主権の信仰”です…しかし、”聖書は、(ガラテヤ2:20)で「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と信仰の奥義は、キリストが私の内に生きる事”と告げるのです…”心におられるイエスに主権を渡す”のです。

 ”私共の信仰生活は、この証言に生きる事”なのです…”我が内におられるキリストを主として、神の栄光を現す為に生きる”のです…ひたすら”共におられる主イエスに聴き従う中で、全てを御存知であり、愛をもって導かれる生きた神に預かる”のです。

それゆえ”モ−セは、聖所建築を始めるにあたって「全て主が命じられた様にする」という一事を語り、そこに徹して建てた”のでした…”主の御心を問い、聴き従いつつ生きる”…”神第一の生活”とはその事なのです。

 先日、相馬先生を通して、「主の祈り」を学びました。「天にまします我らの父よ!」との”祈りの恵み”を学びました。

”主の祈り”が「我ら」と祈り求める様に、”キリストを心に迎えキリストと一つにされて生きると言う事”は、”私(個人)が主イエスを信じ、教会(我ら)に加えられ、我らが共に礼拝を献げる所に与えられる”と言う事でした。それ故、世界中の教会では、礼拝で”主の祈り”を祈るのです。

 後で、相馬先生が、土居教会での礼拝について記した週報をお送り下さいました。一部分を御紹介します…「…ホーリネスの教会に、日本キリスト改革派教会の牧師が伺うのは初めてです。緊張しましたが、とても良く聴いて下さいました。

 午後の学びの折に、「主の祈り」を学びましたが、92歳の姉妹が実に的確にコメントを話されました。この年齢で説教を聴きとって、しかも的確に受け入れられているのです。『今日の説教はこういう理解で宜しいでしょうか。自分は最近このように教えられているのです〜』私は、『その通りです。少し表現は違いましたが、大西さんの仰っる事はそれで全く正しいのです。』と言いました…目をキラキラさせて、手を合わせて感謝されました。この方は、波乱万丈の半生を送られ…。本当に、霊的なキリスト者でした。最近交通事故にあわれて車椅子でしたが、91歳まで現役の日曜学校の教師であったという事です。教派を越えて、本当に、御言葉の恵みに生きておられる方には、説教の言葉が通じるのだと、当たり前の事ながら本当に嬉しく励まされました…」。

 先日、聖子師が大西姉を訪問した時に、姉は「我らの父なる神様」と祈られたそうです…相馬師を通して、主が私共にお語り下さった事…大西姉を含めた私共全員がお聴きした事は、”「我らの父よ」との祈る祈りの恵み”でした。

「自分(個人)が、キリストの十字架の罪の贖いを信じて罪赦され、キリストの躰なる教会(我ら)に加えられ、生きる時も死ぬ時も主イエスと一つに結ばれている喜びを、我らが献げる礼拝毎に体験するのです…そこで、我らとキリストは一つとなり、兄弟姉妹への愛をも呼び覚まして頂く”」のです。

 ”人が罪赦され、一つに結び合わせて、一つの共同体を築く事は、「神の御心」、それこそが「神の喜び」”なのです…”十字架の目的”だからです。

 神は、「我らの神」なのです…”私だけの神と成ってしまっている時、私共の信仰は大変な病にかかってしまっていると言わなければならない”のです。

”私共が一つに集って、「我らの父よ」とお呼びする時にこそ、心の聖所に父なる神の喜びが満ち溢れる”のです…その中で、人は、神の栄光を求めて生きる神の子と造り変えられて行くのです”…そして私共の心に、イエスが住まわれる聖所が建て上げられて行くのです。

 モ−セは「全て、神が命じた通りに行いなさい」と言いました…”主イエスと1つと成って生き、神の栄光を現す為”です。その様な”心の聖所を建て上げる生活は、我らが1つとなって主イエスを礼拝し、主イエスと一つとなる喜びからスタートするのです…その中で、神の栄光を現す者達に成って行く”のです。