「神の宣言」
出エジプト34:1〜9
34:1 主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。
34:2 明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。
34:3 だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」
34:4 モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
34:5 主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、
34:9 言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」
ロ−マ5:8
5:8 しかし、私達がまだ罪人であった時、キリストが私達の為に死んでくださった事により、神は私達に対する愛を示されました。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神の宣言」
出エジプト34:1〜9、ロ−マ5:8、
今朝、私共は、出エジプト34章1〜9節の所を共に聴きつつ主に礼拝を献げて参ります。
モーセに、「後ろ姿を見せる」と約束した神は、この所で「再びモーセに山に登るようにと」命じられました。
モーセの最大の願いは、”神が民の中に臨在される事”でありました…即ち、イスラエルの罪によって、”一旦破られてしまった契約が更新される事”です。
その為に先ず必要な事は、以前に砕いた、あの”石の板を書き直す”事でありました。
そんなモーセに、神は”二枚の石の板を準備し、山の頂きで神の前に立つように命じられた”のです…モーセは言われた通りに準備し、朝、シナイ山に登って行きました。
恐らく人々は、山の麓に集まって、モーセが、自分達の代表として、神の山に一人登って行くのを見送った事だろうと思います。
神はモーセと深く交わる時、度々、シナイ山に彼を招かれました。それは、”地上の喧騒を離れ”て、自然の中で、”深い神の臨在”を感じさせ、また、”深く神の言葉だけに思いを向けさせ”、そこで聴いた”神の言を書き記させる為”でした。
預言者エリヤも同じような経験をしました。悪女イゼベルに命を狙われ、逃れて来たエリヤが到達したのも、やはりこのホレブの山ことシナイ山だったのです。その時、エリヤの心はズタズタに傷つき疲れ果てていました。
しかし神々しいまでの自然の驚異の中で、エリヤは神を見上げる事が出来、神の臨在が通り過ぎる体験と共に、神の声を聴き、エリヤの霊は再び奮い立ったのでした(I列王記一九章)。
私共も、日々、祈りの中で静まり、神の身許に登って神と交わるのです…時には、山や海辺で持たれるキャンプや修養会に参加し、自然の中で、神の御声に集中する時を持つ事も良い事です。
私も伊豆大島のバイブル・キャンプで神に出会って救いに預かりました。”神様だけに心が向かう時、神が語りかけて下さる事があるから”です。
シナイ山の頂は神の臨在を現す雲に覆われておりました…神は、その雲の中で、降りて来られたのでした。33章21節で命じられていた通りに、岩の上に立っていたモーセは、慌てて岩の裂け目に身を隠し…その時,ついに”生ける神の栄光が通り過ぎた”のです。
その時、主なる神は、次の様に”宣言されました”…6〜7節「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と…。
此処で、神は先ず最初に「主、主は…」と名乗られて、「私は、この様な者である」と,”神御自身の事を宣言された”のです。
「主、主は」と2度繰り返しています…これは黙示録22:13「私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」と”同じ事”なのです。 ”「私は永遠の神である」と神は宣言”されたのです…イスラエルの民も私共も、この”永遠の神”に、これ迄も導かれ、そして、これからも導かれて行くのです。
では、神はどの様な御方として私共を導かれるのでしょうか?
6節には「憐れみ深く恵みに富む神」とございます…この「憐れみ」という言葉は、「母の胎」 と同じ語源の言葉が使われております。”神は私共を、お腹の中の赤ちゃんの様に、無条件 な愛で包んで下さる御方”なのです。
続いて「恵みに富む」とございます…ここの「恵み」は”良きサマリヤ人の譬えに見られる恵 み”を現す言葉が使われております…”敵対している者に向けられる一方的な善意”です。
新約聖書のロ−マ5:8に「しかし、私達がまだ罪人であった時、キリストが私達の為に死ん でくださった事により、神は私達に対する愛を示されました」…とあります。この一方的 な神の愛こそが”神の御性質” なのです。
次に出て参ります「忍耐強く、慈しみとまことに満ち」では、神は、「私は、あなたの罪を耐え 続ける」と語られたのです。私共は、人の罪を耐え続ける事が如何に困難か知っています。しかも、”「耐えながら慈しむ」と言われる”のです。
私共は神様を忍耐させながら、 神に慈しまれている存在なのです。
7節には「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」とございます…この「幾千 代にも及ぶ慈しみ」との言葉には、”契約の愛”という言葉が使われております。
神は「罪を赦し”神の民”として受け入れた者を、何時までも、何があっても,とことん慈しむ」 と契約して下さったのです…私共は、この神に信頼するのです。
先日、”命の水計画”の守部姉が来会下さった事は、先週も、お話致しましたが、その証の中に、「ある中国人のキリスト者が、宣教活動ゆえ、政府に逮捕される危険が迫り、大きな恐れの中にあった時、御言葉が迫り平安の内に投獄され…。
牢獄では新参者は、挨拶代わりに酷い暴力を受けるしきたりがあり、前の方も2週間経っても動けない状態で横たわっていたそうです。しかし、牢の主は彼を横に置き、賛美をさせたり、聖書の話を聞く様になり、暫くして救いに預かりました。
そして、牢内にリバイバルが起こり、死刑囚が「死刑になるけど大丈夫。イエス様がいるから」と、神を伝えに来てくれた事を感謝したと言うのです。
無期に成ると思っていた彼自身の投獄生活も、2ヶ月で出所出来る事となり、囚人達は「神を連れてきてくれた人がいなくなる」と泣いたのだそうです。
そして、出所した時、偶然、日本から聖書を携えて来た人々に出会い…その方々が、彼の為 に祈っていた人々だと知った時,…彼は「祈られていたから導かれたのだ」と気づいたそうです…”何処までも慈しむと契約された真実なる神の証”です。
7節で神は「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず」とも語られました。身がすくむ言葉で す。しかし、この言葉を新約聖書の光から解釈するなら”「しかし、神がどんな愛の御方だったとしても、あなたは、今、聖い神の御前に生きているおそれを忘れてはならない」と読んで構わない”と思います。
これらの様に、此処には、”罪を審かれる義なる神”と共に、その”罪人に対する神の愛と恵み”とが見事に描かれているのです。イスラエル人の為に懸命に執り成すモーセにとって、この”神の名による宣言”は、大いなる励ましでした。
この宣言によって勇気を得たモーセは、通り過ぎた神の栄光の余韻の中で、ひざまずき、「どうか主が私達の中にいて、進んでくださいますように」と願ったのです。
しかしモーセは9節で、「確かに、この民は、うなじのこわい民ですが」と、”恵みに預かる者達への大切な〜メッセ-ジを残した”のです…イスラエルの民が「うなじのこわい民」と呼ばれたのは、既に、これで四度目なのです。そして、この”釘刺す言葉”こそが、”神の民が、神の恵みに預かり続ける為のメッセ-ジ”だったのです。
イスラエルが救われたのは、決して”彼らが優れた民だったからではなかった”のです…彼等は、”頑固で頑なな「うなじのこわい民」と言われる者達”だったのです。
民は”神の一方的な恵み”で救われた事を、絶対に忘れてはならなかったのに、いつの間にか”選民意識を持つようになって行った”のです。恐ろしいズレを生じて行ったのでした。
私共は,”十字架による、一方的恵みによって救いに預かりました。そして、一方的な神の忍耐と慈しみによって赦され続けている”のです。
私共は、この共同体の交わりに於いても、”砕かれた心で、一方的恵みで赦され続けている罪人”である自覚に留まり、”救いの恵みに預かりつつ、アガペーの愛で赦しあう群れ”として歩んで参りましょう。
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