「臨在を求める祈り

詩篇106:23
106:23 主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。

出エジプト33章1〜19

33:1 主はモーセに仰せになった。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。
33:2 わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。
33:5 主がモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。『あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう』」と言われたので、
33:6 イスラエルの人々は、ホレブ山をたって後、飾りをはずした。
33:7 モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
33:8 モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。
33:9 モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。
33:10 雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。
33:11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。
33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、
33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。
33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」
33:18 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、
33:19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  臨在を求める祈り
 

 今朝は、出エジプト33:1〜19の所から、共に御言葉に聴き礼拝を献げて参ります。

前章の後半には、金の子牛の像を造って伏し拝み、性的な戯れにふける罪を犯した民に対して,「うなじのこわい(神に対して鈍く頑な)民よ」と怒る神に対して、”必死に執り成したモ−セの祈り”が記されております。

 そうしたモ−セの祈りを聞いた神は、やがて和らぎ,民の罪を赦し、再び民をカナンの地へ導くようモーセに命じられたのです。

しかし次の言葉は、モーセを落胆させました。「見よ。私の使いが、あなたの前を行く」(出エジプト32:34)という言葉です。

 モーセが切に求めた事は、民の只中に”神が臨在して下さる事”でした。しかし神は、「御使いに彼等を導かせる」と言われたのです…代役を立てたのです。

 神様は3節で「もし民が、罪を繰り返し犯し続けるなら、今度は彼等を絶ち滅ぼさなければならなくなるかもしれないから」と言われたのです…神は、決して罪と相容れない”きよい神”だからでした。

「私は民を裁き滅ぼしたくない…だから一緒に行かない。幕屋の中に臨在する事を止める」と言われたのです…”民は神からの信頼を失ってしまっていた”のです。

 しかし、モーセは、「御使いが共に行く」という事では満足しませんでした…それは、”イスラエルに神の臨在がなくなってしまう事を意味していた”からです…納得できないモーセは、再び命がけで”執り成しの祈りに立った”のです。

 この知らせを聞いた民も、目の前が真っ暗になりました…此処に来て初めて、”金の子牛の像を造る”大罪の元となった金の飾り物を取り去ったのです。(6節)。民は”罪に気づき罪を捨て去ろうとした”のでした。
 
詩篇106:23「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは/破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」とございます。モーセは、宿営の外に、自分の為に特別な天幕を張り、それを「臨在の幕屋」と呼び、そこで”神の御前に立った”のです。

 この幕屋は、神に十戒を授けられる時、イスラエルの宿営の真ん中に建設を命じられた幕屋が完成する迄の仮の質素なものでした…常時,神が御臨在なさるものでなく、”モーセを呼び求めた時だけ、雲の柱が天から降りて来た…つまり、神が降りて来て下さる所”だったのです。

 本当の神殿は、イエス・キリストの十字架と復活の後、主が、”私共の内に住んで下さる事によって完成した!”のです…旧約時代の幕屋や神殿は、その”神の臨在”の型(予表)でありました。モ−セは、この”臨在の幕屋”において、”神の御前で民の為に執りなした”のです。民も固唾を飲んで、モ−セが臨在の幕屋から出て来るのを待ち続けたのです。
 
11節には素晴らしい事が書かれております…「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」と…。

”モ−セは神と顔と顔とを合せる様に迄、神との親しい交わりに預かっていた”のですが、モ−セは,そこに留まらず12−13節にあります様に、”命がけで「民に対しても、神よ御臨在下さい」と執り成したのです。その中で神の怒りは和らぎ、「主が共に歩んで下さる約束」と「約束の地を与えて下さる約束」を再契約出来た”のでした。

 この”臨在の幕屋”は、ある訳では”会見の幕屋”と訳されております…私共には、この主イエスと会見する”臨在の幕屋”があるでしょうか?
 それは、日々のデボーションです。自分の部屋ででも、押入れでも、通勤中の自動車の中でも台所でも良いのです。何処でも”主イエスと会見する「会見の幕屋」となる”のです…いえ、たとい何処であれ、”主イエスと会見する幕屋を持たなければならない”のです。

何故なら, ”人を執りなす事は生やさしいものでは無いから”です…隣人の重荷と絶望と悲しみを担う事になるからです。

 今、日曜学校に来ている中学生が、長い間,重い虐めで苦しんで来た事を知り、祈り、共に闘いつつ歩んでいます。先日は学校へも行って参りました。言葉では言えない思いをしております。「この戦いは主の戦いだ」との御言葉を心で祈りつつ共に歩んでおります。

 病んでいる方々の為に執り成す祈りも同じです。心臓が幾つあっても足りない思いが致します。執り成しに生きる事は、日々、たとえ僅かな時間でも、”主イエスと顔と顔とを合せて語る事なしに、なし得るものではない”のです。モーセの様に、”神に友となって頂かずには出来ない事”なのです。

ある人々は、イスラエルの犯した大きな罪の為に、モーセが、神との契約として、神に書いて頂いた”二枚の石の板”を打ち砕いた時点で、”イスラエルの民が神の民とされた契約”は無効になってしまったと考えます。

モ−セが、此処で”必死になって神の御前で願い求めたもの”は、”失われた神の臨在の再契約だった”のです。

「選ばれた民と、そうでない民との違いは”主の臨在があるかないかに尽きる”から」でした…そのモ−セの執り成しによって、13節で「イスラエルが神の民である事」と,14節「神が共にいて下さる」約束を、再度、受ける事が出来たのです。

”神が共におられる”…この事だけが、”神の民の立ち所”なのです。

少年ダビデは武器を携えて挑んできた巨人ゴリアテという戦士に対して、「私は万軍の主の御名によって立ち向かう」と宣言して勝利したのです。”真の武器である、主の臨在を信じた”のでした。

新約時代に時代が移って参りますと、”神の臨在”は、”聖霊に満たされる”事となって参ります。”心の中に主イエスが充ち満ちて下さる様に成った”のです。心が”臨在(会見)の幕屋と成った”のです。

 使徒言行録7:55-60では「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた…。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と…ステファノはこう言って、眠りについた」とございます…”殉教の中でも聖霊に支えられて、石をなげつけている人々の為に執りなした”のです。

 私共が、隣人の為”執り成し祈る”という事は、”隣人が主の臨在によって支えられる様に祈る事”なのです。

モ−セは、”神の友”と呼んで頂く程、”神の臨在を求めました”…しかし、そこで終わらず”民の為にも執り成した”のです。キリストも「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである。」と言われました。

 私共は、おのおの主の臨在を求めますが、更にお互いの為に、”主の臨在”を祈り合う時、”主イエスの臨在が活き活きと豊かに注がれる”のです。執りなし合う中で土居キリスト教会という群れは、”真の主にある兄弟姉妹となる”のです。

 この朝から、「自分を、そして兄弟姉妹をも、主イエスの臨在で支え、癒し、お導き下さい」と共に執り成し合う群れと、更にして頂ける様祈りましょう