「祝福を受ける道

マルコ10:13ー1

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  祝福を受ける道
 

*今朝は、マルコ10章13ー16節の神の言を共に聴いて礼拝を献げます。

この箇所は,「子供を祝福された主イエス」の場面として有名な所です。主イエスに触れて頂く為に、親達が子供を連れて来たのです。所が、弟子達が叱り始めて、そんな人々を追い返そうとしたのです.

しかし、14節に「イエスは,これを見て憤り」とございます…それを見たイエスが、弟子達を怒ったと言う出来事です。

主イエスを”愛の御方”だと知る私共には意外に思える言葉ではないでしょうか?…何故、意外に思うのでしょうか?…自分自身を見つめて思う事は,「憤慨している時は、自分が正しいと思って、感情的に言い過ぎた事が多いからではないか?」と思うのです。

 ”憤慨”という言葉に,「感情的になって言い過ぎた」と言う”後悔のイメージが重なる”のは私だけではないと思うのです…イエスが”憤られた”事に意外さを覚える理由は,その辺にあるのかも知れません。
 
 ”永遠の命に関する憤り”は必要な憤りです!…子供達を追い返そうとした弟子達を憤られた”主イエスの憤り”は、”神の憤り”でありました…しかし,弟子達には、”神の憤り”が理解出来なかったのです。

 13節を見直しますと「人々が子供達を連れて来た」とございます…”子供達は,自分の意志ではなく連れて来られた”のでした。霊的な力があると評判の主イエスに、「子供を祝福して頂きたい」という親達に連れて来られたでした。七五三の様なものだったと思います。

しかし、主はこの時、”十字架を目前にした大切な〜時に差し掛かっていた”のでした。

弟子達にしても、十字架を前にした主イエスのお気持ちなど、ちっとも分からなかったのです.

しかし,だんだんエルサレムが近づいて来ると,だんだん主のお言葉が厳しく成って来る。人々を癒す事よりも、弟子達の教育に心を注ぐ様に成って来る…そして、何よりも、主のお顔に、緊張感から来る疲労が滲んで来た事を弟子達は感じ取っていたのでした。

 そこで弟子達は、”主の弟子”という、”ささやかな権力を振りかざして”、押し寄せる親子達を追い返したのでした…イエスを思っての行動でありました。

 しかし,主イエスは、そんな”弟子達の権力意識に向かって憤られた”のでした。かつて、「御国に於いて、主の右大臣と左大臣にして欲しい」と願った弟子のヨハネとヤコブに対して「一番上に成りたい者は、全ての人の僕と成りなさい」と叱られました。

でも、この時、弟子達は,”子供達にも仕えるべき事を忘れ”、居丈高に子供達を主イエスから引き離したのでした…そして、それは、”子供達から、永遠の命という祝福を奪う事”だったのです。

 16節には、主が「子供達を抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されております。”聖書の言う”祝福”はとても〜重いもの”です。”祝福は神の臨在と共に生きる事”であって、”一度、神の名においてなされた祝福は、取り消す事が出来ないものだった”のです。

 主イエスは、御自身が、どんなに大変な中であったとしても、”祝福の為には立ち上がられる御方”でありました…”子供達の為に立ち上がられた主イエスは、私共の祝福の為にも、十字架にまで立ち上がって下さった”のでした。 

 主イエスは、人々を主の祝福からさえぎる事に”憤られた”のです…この、”主の憤り”は、”滅びに向かう人々を、ひたすら祝福しようと生きる者だけが知る憤り”だったのです。

 そして,主イエスは、”祝福を与えて下さる唯一の条件”をも語られました…それは「子供の様に神の国を受け入れる事」であります。これは、どういう事なのでしょうか?…或る聖書学者は、この15節の「子供の様に神の国を受け入れる者」という御言葉だけを見ていても,この意味は分からないと申します。

私共は、この所を読む時に「子供の様に汚れ無き心でキリストを信ずる事」と思ってしまいます。しかし、聖書は子供を”汚れ無き者とは見ていない”のです。

娘が、仙台時代に通っていた小学校に、今、兄が勤めていますが、学級崩壊で大変だそうです。小学生でも酷い虐めもがあり、ナイフを持ち歩く子もいるのだそうです。土居ではちょっと考えられませんが…。

 子供は決して,”汚れ無き者ではありません”…無邪気なだけなのです。では、”何故、主イエスは無条件で子供達に近づき祝福されたのでしょうか?…此処に、この主の教えを解く鍵がある”のです。
 
 今日で、W杯も終わります…国中が一体感を感じたお祭りが終わる寂しさを感じます。「頑張れニッポン」、「頑張れコリア(韓国)」と何度も〜聞きましたし、応援もしました。

しかし、この「頑張れ」と言う言葉を見直しますと、「我を張る」と書く事に気づきます。「我を押し通しなさい」と応援しているのです。しかし、一流のスポーツ選手は、無我の境地で戦っている事があると言います。スポーツに於いても、”頑張りを捨てて、無我の境地というのが最も良い心”なのだそうです。

 また、この”「子供の心で主イエスを信じなさい」という教え”は、”結婚の教え”と”富める青年の教え”に挟まれております。此処にも、この”主の教えを解く鍵”がございます。

 「結婚の教え」で、主は「我を張る心を捨て、主イエスを主とする事」を語られました。

また、「富める青年への教え」では、「頑張る事を止めなさい」と語られたのです…頑張って救いを求めていた青年でした。主は彼に「あなたが救いに預かりたいならば全財産を捨てなさい」と言われたのでした…財産は、持てば持つ程、そこに心が執着し、捨てる事が出来なくなるのです…富める青年は、悲しみながら主の下を去って行きました。

実は、主イエスが本当に言われたかった事は「頑張りを捨て、差し伸べる主の手に、ただすがりなさい」という事だったのです。”子供は1人で生きて行けない事を知っている…どんなに頑張っても、誰かの手に寄りすがらなければ生きて行けない”のです…主イエスは、「子供の様に、差し伸べられる主の手にすがりなさい」と語られたのでした。

 ”主イエスの祝福に預かるには、子供の様に、子供と共に、主の御前にひざまつく”のです!。

そして、この「親が子供と共に、主の御前にひざまづき、主の憐れみを求める姿」こそ、”真の教育でもある”のです。”主と共に生きる事=祝福を受ける唯一の道”を伝える姿だからです。

先週,中国に聖書を運ぶ「命の水計画」の、守部姉が来会下さって,お証をして下さいました。

13億人を抱える中国人の殆どが福音を知らず。今、極端な貧富の差の中、人々は、お金に心を奪われ「隣人への愛を忘れ、皆、深い孤独に支配され…病気の子供達や老人が道に捨てられ行き倒れている」との事でした。
 そうした中国の為に、老いた、また、病んでいるキリスト者までが立ち上がり、正に命がけで伝道されている証と、祈りに答えて生きて働かれる主イエスの御業をお聴きしながら、自らの信仰を恥ずかしく思いました。
 守部姉が、ある問題で7年も苦しみ、「御言葉を届ける事は、神を届ける事を知った」との重い言葉や、中国の賛美「人の行き詰まりこそ、神の始まり。行く道を失うと、そこに神の出口がある…人の助けを失うと、神が、あなたの助けと成られる」を聴きました。
 また、ある中国の方が「日本のキリスト者は、中国のキリスト者が強いと思っている。でも、それは違う。弱いから怖いから主を見上げる。委ねるしか出来ないのです。信仰に強さは必要ない」と言われた言葉を聴きながら…「困難の中で、主に寄りすがる事を経験されているのだなあ」と思わせられました。

 ”小さな権力を振りかざした弟子達”も、この後、イエスが十字架に架けられる時、”国家の権力を恐れて主を裏切った”のです。”主の弟子である誇り”を失ってしまった時、彼等は、”主の一方的な赦しに預かり…そこで「主と共に生きる」祝福を知った”のでした。

かつて十字架の下から逃げ出した弟子達が”主と共に、安らかに生き、安らかに戦い、安らかに死ねた”のです。今朝、私共は共に、”頑張ってではなく、子供の様に主の御前にひざまずき、主を受け入れ、主と共に生きる祝福を頂いて参りましょう。そして、主と共にある和らいだ心で、共に生きる人々の中に遣わされて参りたいと思います”。