「神の国への招き」
マルコ9章42〜50
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神の国への招き」
*今朝は,マルコ9章42-50節までの御言を共に聴いて主イエスを礼拝致します。
この所の始めには,「キリストを信ずる者を躓かせる者は、”大きな石臼を首にかけられて海に投げ捨てられた方が良い”」とございます…先週、倉敷教会への往復で瀬戸大橋を通りながら、この御言葉を思い出し「海に投げられたらかなわないなあ」と思いました。
更に「片手、片足、片目が自分の信仰を躓かせるなら”切り落としなさい。片目をえぐり出して、地獄の火に落ちずに、神の国に入る様にしなさい」など,”ドキッとする厳しい表現”が続いて登場致します。今朝は、主イエスが、この様な”主らしからぬ表現”を用いて迄、私共に伝えようとされたメッセ-ジを共に学び聴いて参ります。
この物語を解く鍵の御言は、47節の「神の国に入りなさい」です。先の全ての厳しい表現は,”私共の目を覚まし、神の国に招く為に”述べられたものなのです。
主イエスの宣教のテーマは何時も、何処を切っても金太郎飴のように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした…奇跡も譬え話も全て「神の国を(神が力をもって愛で支配なさる世界)」を示す為だったのでした。
そして主イエスの”十字架と復活も、神の国の扉をつくる為”だったのでした。主イエスは「神の国に、何としてでも入って欲しい」と切に願われたのです。それが、この「ドキッ」とする厳しい表現となったのでした。
50節には「自分の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」との主イエスの言葉がございます…”神の国に入る為には、自分の内に塩を持つ事が必要だ”と言うのです。
これは,どういう事なのでしょうか?…「塩」は,ユダヤ人にとって、「清め」の意味があったそうです。日本でも仏式の葬儀などでは「お清めの塩」を参列者に配ります。塩の腐敗を防ぐ性質が、そうした習慣を生んだのだと思います。
エルサレムの神殿には、”塩の蔵”があったのです。神への献げ物を清める為の塩の蔵でした。また、親が子供に塩を塗りつける習慣まであったといいます。
「自分の内に塩を持ちなさい」と主イエスが言われたのは、「心は、外から塩を塗りつけた所で聖められるものではない」と言う意味だったのです…実は、この”塩”は,”主イエス”の事なのです。「自分の内に塩を持つ」という事は,「主イエスを心に迎える」事なのです。
エフェソ2:14には「実に、キリストは私達の平和であります」とございます。又、コロサイ4:6にも「何時も、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい…そうすれば、1人〜にどう答えるべきか分かるでしょう」とございます。
私共の”心の内にキリストがおられる時、心に平和が生まれ…そこから、自分の思いを超えた、キリストにある言葉と行いが生まれ出て来るのです…その言葉は、人を生かす快い言葉であって、平和を生み出して行く”のです。それは、”私共が、心に主をお迎えして、主イエスのものになりきる事”なのです。
この”キリストのものと成り切る”信仰の転機こそが、私共の教団が掲げる”聖め”なのです。
”聖め”は、時として、裁きをもたらします。「あの人は聖められていない」とか「あの人は聖められている筈なのに、あんな事をして」etc…と。しかし、”キリストのものと成り切る”という、真の”聖め”は”平和をもたらすもの”なのです。
しかし、此処に、また1つ難解な言葉が出て参ります「人は皆、火で塩味を付けられる」という言葉です…この”火”は”地獄の火”の事です。「人は皆、地獄の火によって主イエスを心に迎える」と言うのです?
意味が分かりません。
この「地獄」は,昔の文語訳聖書では「ゲヘナ」と訳されております…”私共が連想する地獄とは違う”ようです。
この「ゲヘナ」はエルサレムの都の城壁の外にある「ベン・ヒノムの谷」をギリシャ語読みした言葉です。”地獄”こと「ベン・ヒノムの谷=ゲヘナ」は、エルサレムの,”ゴミ捨て場”であり、”死体を焼く所”でもありました。何時も、”火と, うじ, が尽きない所だった”のです。
旧約聖書時代は、”そこで悲惨で罪深い事も行われ”ました。エレミヤ書19:5には、「彼等は、バアルの為に聖なる高台を築き、息子達を火で焼き…バアルに献げた。私は、この様な事を命じもせず語りもせず、心に思い浮かべもしなかった」と記されています…”ゲヘナ”は、”我が子を焼いて偶像の神バアルに献げた、地獄の様な罪溢れる所だった”のです。
それに対して神は、「あなた方は偶像の神を拝み、私が命じた覚えがない罪を犯した…それは、あなた方自身の罪だ」と、”民の罪を指摘し審いた”のでした…こうして、地獄こと「ベン・ヒノムの谷=ゲヘナ」は、”神の審き”を意味する言葉となったのです。
”今迄「神の審き」を受けた人は、「十字架」に架けられた、イエス・キリストお1人です…キリストは、十字架の上で「我が神、〜、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ぶ程に、神の審きの火に焼き尽くされた”のです。
この十字架のお苦しみは、痛みと乾きと共に,いや,それ以上に、避雷針が雷を受ける様に、”私共への神の審きを一手に受けた叫びだった”のです。
この”「十字架の審きの火を、私の身代わり」と信じる事こそが、「地獄の火によって塩味を付けられる」事なのです…その時、心に神の国である主イエスの臨在が生まれる”のです。
”「十字架に注がれた神の審きを、”私の身代わり”と信じ、十字架の御前に罪を悔い改める…その時、主イエスと共にある神の国が始まる”のです。これは、”信仰の鉄則”です。
それは、”救いの時”だけでなく、”その後の歩みに於いても言える”のです…”悔い改め”という竹の節目節目が信仰生活の中にありませんと、”主の臨在をたちまち失ってしまう”のです。そして、そうした、”主イエスの臨在(塩)を失った信仰者が多い”のです。
上野教会の杉本速子先生の為お祈りありがとうございました。辛い事ですが…。先生は水曜日の早朝に平安の内に天に召されました。脳死状態だった時、ちょうど礼拝の時間に、息子さんが、速子先生の脇で賛美をされた時、医学上は動く筈が無いのに、唇と指が動いたそうです…おそらく,その様な中でも、「今も主イエスと共にある事を…。あなたが牧師として生きる事は間違いない事なのだ」と、息子さんに伝えたかったのだと思います。
”主の臨在の中に生きると言う事はそういう事”なのです…人は、もう、それ以上頑張れない時、辛い時、”主の臨在に支えられる”のです。
主イエスは、「この神の臨在の中に、何としてでも入りなさい。塩を求めなさい」と言われたのでした…「あなたの内に、私を受け入れられないものがあるならば、何を捨ててでも、この神の国に入りなさい」と、主は敢えて厳しい言葉をもって、鈍い私共に強く迫られたのです。
これは、個人〜の問題だけではありません。”主イエスの躰である教会の問題”でもあるのです…主イエスは、土居教会という群れにも「塩味のある共同体となる」事をお求めなっておられるのです。
私共は、”主イエスの臨在という塩味のある人へと、主の臨在の滲む交わりへと変えられ、主の臨在のある礼拝へとなって行く”のです。
主イエスは真に厳しい言葉をもって、「身を切る様な痛みをもって何かを捨てででも、悔い改めをもって、私の臨在を求めなさい。塩味のある人間となりなさい。共同体となりなさい…そして、神の国に入って欲しい」と言われるのです。そして、教会は、ただ一筋に、この事に生きているのです。