「幕屋の建設」
出エジプト25:8
25:8 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
Uコリント6:16
わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「幕屋の建設」
前回の出エジプト記の24章では、イスラエルの民が神との間に、”神の民となる契約を結んだ”事を学びました。
この契約が結ばれた後、モ−セは神の招きに応えて一人で山に登って行ったのです。モ−セが山の中腹にさしかかりますと、突然雲が、もくもくとシナイ山を覆い始めたのです。その”雲”は,”神の栄光に満ちた臨在の象徴”でありました。
そしてモ−セは、そこに6日間留まったのです。それは、神の臨在に触れる為の”霊的な備え(罪の悔い改め)の期間”でした。
そして7日目にモ−セは、神の招きを受けて山頂へと向かったのです。そして、山頂に着いたモ−セは、40日40夜に渡って、「神より幕屋と祭司についての指示を受けた」のでした。
私共が手紙を書こうとする時,最も大切な事に,最も多く行数を割きます。出エジプト記において、その様に最も長く記されているのがこの所なのです。
25章から40章に渡って(32〜34は除く)、何と13章も費やして、神から指示を受けた”幕屋建設と祭司の制度”について記されているのです。
それは、”神が大切な事を伝えようとしている事の現れ”なのです…”幕屋”についての”正しい理解は,私共の信仰に大きな祝福を与える”からです。
”幕屋”はテントの様な物ですが,「旧約聖書に於ける福音」とも言われる大切なものなのです。所が残念な事に,多くのキリスト者が、この部分に来ると聖書通読を止めてしまい、”幕屋に込められた神のメッセ-ジ”を受け取ろうとしない様です。
では、神様は「幕屋建設」を通して、何を語ろうとされたのでしょうか?…その答えは、25:8「私の為の聖なる所を彼らに造らせなさい。私は彼らの中に住むであろう」と言う事なのです。
イスラエルの民は、シナイ山の燃えさかる炎と稲妻による”圧倒的な神の臨在”を見、「神様という御方が近づきがたい存在」と成っていたのではないか?と思います…「神を正しく畏れる事は必要な事です」…と同時に,「神は人と共に住む事を望んでおられる」…この事も等しく大切な事なのです。
新約聖書にも、しばしば、この幕屋の事が引用されておりますが、幕屋とは一体何なのでしょうか?
”幕屋”は何よりも、「神が住まわれる所」でありました…それゆえ,神がおられる「天国のモデル」であり、「神が人とお会いになる場所(会見の幕屋)」でもありました。
この”幕屋”が、”イスラエルの宿営の真ん中に置かれた”のです…それは「神がイスラエルの真ん中に住まわれる事を示していた」のです。
”十字架以後、キリストはキリスト者の心の中に住んで下さる様になりました”…今,”私共自身が幕屋とされている”のです。それ故,”幕屋”は、「キリスト者の原型でもある」のです。
更に”幕屋”は、「罪の贖いがなされた所」でもありました。民の罪の贖いの為「生贄の血潮が流される儀式」は、この”幕屋”でなされたのです…「幕屋は、主の十字架の原型でもあった」のです。実際、”幕屋の中に置かれた数々の備品もキリストを象徴するもの”でした。
30節にあります様に、幕屋の聖所に備えられた、机に置く事を命じられた”パン”は”「私は命のパンである」と言われた主イエスを思い起こさせます”し、また31節の”豪華な純金の燭台”も、ヨハネ8:12で「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたキリストを思い起こさせられます”…”ロウソクの様に、十字架で自らを削って他者を灯してくださったキリストです”。
ヨハネ1:14にも「言(キリスト)は肉となって、私達の間に宿られた」とございます…この「宿られた」と訳されている言葉の原語は「幕屋を張った」というものです…”キリストは,幕屋の中に神様がおられた様に,私共の間におられる”のです。
しかし,エジプトの地から脱出して来たばかりのイスラエルの民にとって、幕屋を建設する事は困難な事でありました。
これ程の資材を投じる事は、想像を絶する大きな犠牲を伴ったのです。しかし”神は、幕屋建設にあたって、人々に奉納物を献げる事を求められた”のです。
しかし,それは強制的ではありませんでした…”心から進んで献げる物を神は求められた”のです。「幕屋建設は、彼等の中に神様が住んで下さる事への求めの現れだったから」です…「どうしても神に住んで頂きたいから献げる」…これは”献金の心”です。
実際、”人々は喜んで献げた”のでした。”主イエスも、私共の為に、喜んで十字架に自らを献げて下さいました。愛のゆえ”でした。
そして幕屋建設に於ける、神の最も大切な御命令は、幕屋の一番奥にある、”最も聖なる「至聖所」に置かれる「箱」と「贖いのふた」を造る事でありました…”神が御臨在なさる所”だったからです。
神は、この”箱やふた”を11節、14節、17節で「純金で覆いなさい」と命じられました。その金で覆われた箱の中に「十戒が刻まれた、2枚の掟の板などが納められ」、”イスラエル国家の中心に、この箱が置かれたのです”。
そして、”この箱の進む所に神もまた進んで行かれ”…イスラエルの民は、この箱と共に荒野を旅し、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入る事が出来たのでした…やがて,ダビデ王に神殿建設の思いが与えられソロモン王が完成させた時、神殿の至聖所に、この箱が納められたのです。
また、この箱の上の蓋も大切なものでした…この蓋の上に神が座しておられる”とされたからです。蓋の両端には、”神の臨在を象徴するケルビムが置かれました”。このケルビムは「神の御側にいる御使い」であり、翼と、尻尾のないライオンのような身体を持つ御使いでした。そして、このケルビムの翼が蓋を覆っていたのです…そして「神はこの2つのケルビムの間からモ−セに語れた」のです。
”箱のふたは「贖いの座」と呼ばれました…年に1度、大祭司が、この至聖所に入り、”生贄の血潮を、この「贖いの座」の前と上に注ぎ、イスラエルの民の罪を贖った”のです。
この”贖いの座と、箱の中の十戒の板”は、”十字架そのもの”なのです…「十字架の血潮は,救いを与えるという神の契約」だからです…その”十字架の救いと言う契約を受け取る為には、「掟の板を納めた箱の様な、信仰という箱」が必要”なのです。
新約聖書に、主イエスはラザロの墓の前で,マルタに向かって「石を取りのけなさい」と言われました…勿論、イエスは、マルタに石を取りのけて貰わなくともラザロを甦らす事が出来ました。ただ、”主イエスの恵みを受け取る為には、マルタの「石を取り除く信仰が必要だった」のです。
それ故に、「主よ。もう臭くなっております。4日も経っていますから」と言って石を除けようとしないマルタに向かって主イエスは「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と言われ、”信仰を求められた”のでした。
話を戻します…”掟の板”が納められた箱は、「純金で覆う様に」と神に命じられました。今日の”私共の信仰もまた純金で覆われる事なしに「キリストに御臨在頂く箱に成る事は出来ない」”のです。
それは「御言葉への純粋さ」とも言う事が出来ます。時には「世との闘い」も、「手に入れた物を捨てる」事も問われます。しかし、「十字架の救いを受け取る為には、この幕屋建設の様に、純金のように、純粋かつ献身的な信仰」が求められるのです。
そして,その時、Uコリント6:16「〜私達は生ける神の神殿なのです。神がこう言われている通りです。「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らは私の民となる」という世界が私共の中に実現するのです。キリストが私共の神となり、幕屋を張る様に共に居て下さる…そして、私共の間を巡り歩く…そんな恵みの世界が開かれて行くのです。