「人の偉さを問う

マルコ9:30−37
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  人の偉さを問う
 

*今朝、私共に与えられている御言葉は,マルコの9章の30節以下の所です。或る方は、この所から主イエスの歩みは新しい場面に移ると考えます。「一行は、そこを去ってガリラヤを通って行った」とあるからです。
 
これ迄,主イエスはガリラヤの周辺で伝道しておられ,何処に行っても主の周りには人が詰めかけ賑やかでした。しかし此処では,人目を避け,しかもガリラヤは通り過ぎるだけの所と成っていたのです。もはや病人の癒しも盲人バルティマイ以外はなさらなかったのです。主イエスのお心は、十字架と、その地であるエルサレムへと切り替わっていたからでした。

 この時,主イエスは、「人の子は人々の手に引き渡され殺される。殺されて三日の後復活する」という事を弟子達へ教育する事に専念されておられたのです。

 しかし、弟子達には,その意味が分かりませんでした。いえ、彼等の心は,それ所で無く、「弟子達の中で誰が一番偉いのか?」と言う事で一杯だったのです。

 昨今の政治を見ておりますと「自分を偉いとする政治家の滑稽さ」が目につきます…しかし,本当の”偉さ”というのは”尊敬される事”ではないかと思います。

 ”キリストの像(品性)”が、私共の内側に形作られて参りますと,自ずと尊敬は受けて行くものです。それは、「主を見つめて生きる生き様による」のです…しかし、そうなると、”偉さを求める思いも消えて行く”のです。

 なのに弟子達は,「誰が偉いかと議論していた」のです。議論という場は「何時も考えている事がひょいと口から出て来る場」であります…弟子達は,何時も「誰が一番偉いのか?」と考え、人の目を気にしていたのでした。

しかし弟子達は、正直だっただけかも知れません…普通、人は「誰が一番偉いのか?」と「心で思う事があっても口にしない」からです。

 ”人と比べて自分を計る”教育を受けて来た現代人には、人と比べる思いが、知らず〜の内に染み込んでおります…”人と比べて病む”のです。人と比べて,”自分が上だと思うと人を蔑み不遜になったり、また、下だと思うと,ひがんで批判的に成る”のです。

 神は私共に、イザヤ43:4で「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と語ります。

それは「人はNo1では無くとも皆,価値がある、人は皆Only1(ただ1人しかいない、かけがえの無い存在)として、神に造られた…その自分の価値を知りなさい」と言う事なのです…しかし,人は,その事をなかなか受け取れないのです。

 古典の時代,「偉い」という言葉は、余り良い意味で使われなかった様です。「あの人は偉いから」等のように皮肉として使われる言葉だったようです…此処でも,「偉さを問う心」は、”イエスの万感込めた遺言に心が向かない程、弟子達の心を病ませてしまっていた”のです。

 
 弟子達は、自分達の心の在り方が良くない事には気づいていたようです…ですから,主に「何を議論していたのか?」と問われた時に黙ってしまったのです。

 勿論,主イエスはそうした弟子達の心を見抜いておられました…そこで35節にあります様に「イエスは座られた」のです。

この「座る」というのは、”教師が教える時の姿勢”でありました。主は,この時”居ずまいを正して12弟子に大切な事をお語りになられた”のです。

  主はそこで「一番先になりたい者は,全ての人の後になり,全ての人に仕える者になりなさい」と語られたのです…イエスは,”先頭に立つ事を禁じられたのではありません”…”先頭に立つ秘訣をお教え下さった”のです。それは「人の一番後ろに立って仕える」と言う事でした。

 「一番先になる」というのは「偉くなる」事かと思います…ある国語辞典は「偉さ」を「選ばれている」事と関係があるかも知れないと申します。「私共には選ばれるような値打ちがある」という事なのです。

 先程の、イザヤ43:4に「私の目には、あなたは高価で尊い」とございましたが,そこで,問題となる事は「どんな値打ちがあるのか?」という事なのです。

 詩篇8篇6節には「神に僅かに劣る者として人を造り」とございます。”神は私共を「ちっぽけな者」とは見ておられないのです…「神に劣る事僅かな者、神の栄光の冠」と見て下さっている”のです。

主イエスが此処で「一番先になりたい者は」とおっしゃったのは”「あなた方は、神の目には、誰もが1番尊い者なのだ…だから、一番先を歩む様に生きなさい」と言われた”のでした。

 この”神が私共を見て下さっている「尊さ」を信仰をもって受け留める時、人は心癒され、尊い者としての生き様を考える様になる”のです。更に、”隣人の尊さも知る”のです。


 では、どの様に「尊い者とされた自分の価値を生きたら良いのでしょうか?」… 主イエスは「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」と言われました。

 全てのキリスト者は「主の僕」です…「主の僕」には「仕える者」との意味がございます。

ヨハネによる福音書には,「主イエスが、弟子達の足を洗われた」と記されております。洗足は奴隷の仕事でした。”主は弟子達の僕となられた”のです。その”僕の姿で弟子達の先頭に立たれた”のでした。主は、その姿で,私共にも背で語る様に「私と同じ値打ちある人生を生きようと思うなら、私の人に仕える姿に学びなさい」と語っておられるのです。

 
 では,”どの様に人に仕えたら良いのでしょうか?”

主は「1人の子供を真ん中に立たせて抱き上げ…私の名の為に、このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われたのです。

 日本でも「子供の出る幕ではない」という言い方を致します。当時のユダヤ社会でも同じ様に、”子供の存在は軽んじられていた”のです。しかし主は「私は、この子を抱いているではないか?…あなたも同じ様に、軽んじられている者を、私の名において受け入れなさい。それは、私を、神を受け入れる事になるのだ」と言われたのです。

 我が子でも可愛い時ばかりではありません。時に手に負えなくなるのです…そんな時、主は「今、その子を受け入れなさい…それが私を受け入れる事なのだ」と言われるのです。 

マザーテレサは、路上で死んで行く人々の世話を、主に「その人の後ろに私を見なさい。その人々に水を1杯飲ましてあげる事は私にする事なのだ」と示され、テレサは、あの偉大な業を始めたのです…それは”私共も主に問われている事”なのです。

 ”人は隣人の餓えや乾きや痛みに鈍い”のです。いえ、気づいていても知らぬ顔をする事が多いのかも知れません。

”人間の罪は正にそこに現れます”…弟子達が「私は人々の手に渡され殺される」と言われた主の痛みを、他人事として聞き流し,「誰が一番偉いのか?」という事ばかりを考えていた様に…。

 教会は”主イエスの躰という共同体”です。やがて天国に行った時に、”主イエスに「あの時、あなたは小さな愛の業をもって、あの人を労ってくれたね。私はそこで慰められていたのだよ」と言って頂く、「愛し合う群れ」”なのです。

しかし、私は、自分が”病んだ時”、隣人を他人事とする人の本当の姿を見た思いを致しました…そして、「決して隣人の痛みを他人事とする共同体は造るまい」と心に決めました。

 私共が、”自分の事ばかりを考える罪深さを見つめる時、この罪の為、主が十字架にお架かり下さった事に気づきます。そんな者の為に、御自身の命をもって、永遠の滅びから贖い戻して下さった愛を知る”のです。そして私共は、そこ迄、自分に対して執着して下さる神を通して,”神が見て下さっている自分の尊さを知る”のです。


 私共は「誰が偉いのか?」と問い合うのではなく、”神が「私の目にあなたは高価で尊い」と見て下さっている事に目を留め、その愛と恵みを土台に、神と人に仕える歩みを進んで行く者となりたい”と思います。