「思い出しなさい

イースター
ルカ24:1−12

24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  思い出しなさい
 
イースター礼拝、2002、3/31

*今朝は、主イエスの復活の祝いの礼拝です。今、この朝,与えられた御言葉として、主の復活について語っておりますルカによる福音書の言葉を共に聴きました。

 この”キリストの復活”は,最も信じがたい事の1つです。初めて、この事を聞く時,誰もが1度は「本当だろうか?でっち上げではないのか?」と疑問に思う所であります。

 20世紀に入りまして、聖書という神の言を、歴史的な書物として歴史的成り立ちを研究する学問が進みまして、”聖書が歴史的事実を記した書物である事が常識となって参りました”。福音書の記事を伝説や作り話だと断言出来なくなったのです。

そうした事もあると思いますが、先週「知ってるつもり」と言うTV番組の最終回でも,「イエス・キリスト」が取り上げられました。福音的な見地からイエス・キリストを”神の独り子”としては紹介しきれてはいなかった部分は少し残念でした。しかし,”「神の独り子としてのキリスト」や「復活」は信仰の事柄だから”いたしかたないのだと思います。

 では,”何が主の復活への信仰を可能とするのでしょうか?”…その事が、このマグダラのマリヤと、復活の主との出会いに記されている”のです。

 今朝与えられている御言葉には、”キリストの復活を最初に知ったのは女性達だった”と記されております。

主イエスの墓を尋ねた、マグダラのマリヤを初めとした女性達が,イエスの墓の異変に気づき,復活の主に出会い,弟子達に報告したのでした。

 マグダラのマリヤは,かつて”主イエスに7つの悪霊を追い出して頂いた人”でした。主との出会いによって,人生が変えられ,救われたのです…そんなマグダラのマリヤは,主イエスが十字架を目前に控えられておられた時,感謝と愛を込め,高価な香油を全て注ぎ,その香りで,主の心を慰めた唯一の人だと言われております。

 彼女は,此処でも,再び香料を携え,女達と共に墓に向かって急ぎ走ったのです…愛する主の躰が腐敗して行くのを一時でも遅らせる為でした。女性ゆえの優しさです。

 けれども、”墓について見るとイエスの遺体が無かった”のです。

女達が、思いもしない事態に戸惑っていると、明らかに人間とは違う2人の人が現れ、5節「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか?…あの方は此処にはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになった事を思い出しなさい。『人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ三日目に復活する事になっている』と言われたではないか」と言ったのです。 

 「思い出しなさい」と御使いに語られた女達は、”主イエスが語っておられた御言葉を思い出したのです。

そして,その時、「女達は”主の復活”を信じる事が出来た」”のでした…この事を,一刻も早く弟子達に伝えようと帰路を急ぐ中,女達は”復活の主にお会いする恵みに預かった”のでした。

此処の「思い出す」という言葉は「記憶を呼び起こす」事とは違います…「思い当たる」という事なのです。

「思い当たる」を辞書は「自分の心の中に留まっていた言葉を、何かの出来事をきっかけとして思い起こして納得する」と説明します。

 ”「納得する事」は,心にあった言葉を理解し,更に,糧や力とする事”です…今朝、共に聖餐に預かりますが、聖餐の祝いの度毎に「私の記念としてこの様に行いなさい」との御言葉が読まれます。この「私の記念として」というのは、「私を思い出す為に」と言う事です。

 主は、「聖餐の度毎に、私の十字架を思い出して納得しなさい。私の十字架を納得して、あなたの糧として、力として、命として経験し続けなさい」と言われたのです。

 更に”「思い出す」という事は、「思い続けて突き当たる」事でもあるのです。

御言葉を思い巡らす事によって何かに突き当たる”のです…”この「主は復活されたのだ。此処にはおられない」との御言葉を思い巡らし復活の主に突き当たる…それが「復活の主に出会う道」”なのです。

 弟子達も,女達から,初めて主イエスの復活の話を聞いた時,「たわ事・愚かな話」に思えたのです。この「たわ事・愚かな話」との言葉には「実体の無い話し、つくり事」との意味もございます。「くだらない話」と訳している聖書もある程です。

 弟子達には,”復活の話を,女達の妄想だと思えた”のでした。当時、女性は大変な差別の中に置かれておりました…「真理を語り得ない者とされていた」のです。そんな女達の話を信じると男のこけんに拘わるとでも思ったのかも知れません。

 しかし使徒言行録17章を見ると必ずしも女達の話だから信じて貰えなかった訳でもないようです。

後にペトロやパウロが復活の主について語った時,それを聞いたアテネの知識人達が「この事については,いずれまた聞く事とする」と言って帰って行ったと記されております。「いずれまた聞く」というのは,「聞く値打ちもない話」だから2度と聞かないと言う事なのです。

 それ程,「復活を信じる事は難しい」事である事を思う時、ペトロや弟子達が女達の話を直ぐ信じる事が出来なかった事も無理からぬ事だったと思うのです。

 しかし聖書は、「ペトロは直ぐに立って墓に走って行った」と私共に伝えるのです…おそらく、この時ペトロは、”初めて墓に向かって走る”という事を経験したに違いありません…墓は重い足取りで行く所だからです。

 ペトロは直ぐに反省する長所を持った男でした…余りに真剣な眼差しで「主が復活された」と語っていた女達の言葉を思い巡らす内、ペトロは,女達の話を愚かな話と思った自分を反省し、ともかく”「立って墓に向かって走ろう」との思いに押し出された”のでした。

 実は、この「立って走る」の「立つ」という言葉は,”「甦えりを表す言葉…墓から立ち上がる」時の「立つ」との言葉が使われている”のです…ペトロは、この時「十字架に架かられた主を裏切ってしまった挫折に崩れ落ちていた」のです。

 ”「主が甦った」という知らせは、そんなペトロを立たせた”のです…”ペトロは、復活の知らせの言葉を思い巡らす中で、神の力、主イエスの力によって、挫折の中から、又、疑いの中から、墓から甦える様に立たせられた”のでした。

 そして墓に到着したペトロが中に入って見た所、3節「主イエスの躰が見あたらなかった」のです…”主の遺体はそこに無かった”のでした。あま布しか無かったのです。

実は此処は”福音書の中で、唯一、イエスを「主イエス」と呼んでいる所”であります…これは、”(人間)イエスと言う名のお方は、甦られた「主(救い主)」だったと告げている”のです。

 ペトロ自身が,後にこの時の出来事を説教で語りました…使徒言行録2:36で「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と…。これは”「十字架で殺されたイエスこそが、神に甦らせられた救い主だった」”と言う事であります。

そして、この告白は、その後の”教会の「常に変わらないメッセ-ジ」と成った”のです。

 教会は「主イエスの復活の思い出に生きています」。

”「あの方は此処にはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになった事を思い出しなさい」との御言葉を、礼拝毎に思い巡らし、復活の主に出会い続けているのです…その中で復活の信仰に生かされているのです。

死の恐れから解放され、また、辛い中であっても、挫折の中でも、あのペトロの様に、復活の力によって立たされて行く”のです。