「第十の戒め」
出エジプト20:17
20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
使徒言行録20:32〜35
20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「第十の戒め」
出エジプト20:17、 使徒言行録20:32〜35,
*今朝は、十戒の最後の戒めとなりました。
出エジプト20:17「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」と言う戒めです。此処にある「隣人の家を欲してはならない」は、口語訳では「貪ってはならない」と訳されているものです。
この戒めは、他の戒めとはいささか毛色の違ったものです。何が違うのか?と申しますと、”具体的な行為に関するものでなく、心の在り方に対する戒めという点です。”
「人間(男?)は狼」という言葉がございます。何故、狼が恐れられるのでしょうか?…それは、欲しい物に飛びかかって残酷な殺し方をすると言うイメージから、貪りの象徴の様に思われているからです。
しかし、獣は満腹していたら獲物を襲わないと言われます。でも人間の欲には際限がありません…その点では獣より始末が悪いのです。今朝は、神様が、十戒の最後に念を押す様に語られた”貪りの罪”について聖書に聴いて参ります。
T、貪りの罪を生みだす所
エフェソ5:5に「全てみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐ事は出来ません。この事をよくわきまえなさい」とございます…此処では、”貪欲が偶像礼拝に結びつけられている”のです。
此処に、神の”罪に対する深い理解”が見られます。”信仰と切り離せる罪や倫理は無いと言う理解”です。
”心の主人の座に、神でなく欲望を置いている者を、神は偶像礼拝者と呼ぶ”のです…そして、”その様な者は神の国を引き継ぐ事の出来ない者となる”のです。
十戒を思い返しますと、最初の”第一、第二の戒めで「神を信じなさい」と命じ”ておりました。”人間の心の在り方の根本に関わる戒め”です。そして、それに続く倫理的な戒めが、その”神を信じると言う土台の上に語られていた”のです。
前にも申しましたが、罪と言う字は、目と言う字が横倒しに成って上に置かれている…「目が正しい所に非ず」と書いて罪なのです…正に字の如く”罪は、心の目が神から逸れている所に生まれる”のです。
神を見つめ神を畏れ愛する時、人は罪より守られます…しかし、”神から逸れた心の眼差しが隣人に向かう時、貪欲の罪が生まれて来る”のです。そして、そここそが、”貪欲の罪を生み出す所”なのです。
U、悟り難い貪りの罪
では、”貪りの罪”とは一体何なのでしょうか?…「あれも欲しい。これも欲しいと言う事なのでしょうか?…でも、欲望を捨て切る事など出来ないし、そもそも人間の欲が文明の発展をもたらしたのではないか?」とも思います。
その様に思いながら、この第十の戒めを良く眺めますと「隣人の家と隣人の妻を貪ってはならない」と具体的に書かれている事に気づきます。 今、サムエル記下11章の物語を思い出されている方もおられるかも知れません。ダビデ王の姦淫の物語です。
ある日、バト・シェバという美しい女性が水浴びをしているのを見たダビデは、その女性魅せられてしまいました。やがてバト・シェバは、家臣ウリヤの妻である事を知ったのですが、ダビデはバト・シェバに、子を宿らさせてしまったのでした。
そこでダビデ王は、バト・シェバの胎の子の父親が自分である事を、”王の権力を用いて誤魔化そうとした”のです…戦いに出ていたウリヤを家に戻したのでした。
しかし、神と主人に忠実だったウリヤは、「神の箱も主人も仲間も戦いの場で野営しているのに、自分だけ家に帰る訳には行かない」と帰宅しなかったのです。
慌てたダビデ王が次に立てた策略は、戦いの最前線にウリヤを送って戦死させる事でした…策略は功を奏しました。ダビデ王は誰に咎められる事もなくウリヤの妻を王宮に迎え入れたのでした。
しかし、”聖書は「ダビデ王のした事は主の御心に適わなかった」と記しているのです…神は見ておられた”のです。
そして、続く12章を見ると、ダビデ王は預言者ナタンによって罪を追求され叱責されて、はじめて自分の罪に気が付くのです。
ナタンから「或る預言者が貧しい隣人の家を貪り、小羊を取り上げた」と言う話しを聞いた時、ダビデ王は「その男は悪い男だ」と怒りながら、それが自分の事だとナタンに指摘される迄気づかなかったのです。
この事は”大切な事を私共に語りかけます…それは「自分の罪には鈍い」と言う事”です。
それ迄、神を畏れて歩んで来たダビデなのに、この時の行為は魔が差したとしか言いようがありません。正に、”ダビデはその時、悪魔に支配されて罪を犯し、罪に対し鈍くされていた”のです…ただ言える事は、その時ダビデは、”神を神とする心を忘れていた”と言う事です。
V、貪りの罪からの解放
王という地位と権力ゆえに貪りの罪を犯したダビデ…昨今、S代議士の疑惑が絶え間なく報道されております。
彼は幼少の頃、想像を絶する程貧しかったそうです。そんな中で、貧しい者を顧みる政治家になろう、北海道を顧みる政治家になろうと志を立て、やがて人情が篤い、叩き上げの政治家として頭角を現して来たとお聞きしました。しかし、ダビデ王と同じく、権力を手にした時、貪りの罪で道を踏み外して行ったと思えるのです。
しかし、これは”私共の内にも深く根を下ろしている罪ではないでしょうか?”…「自分の人生を自分の思いのままにして何故悪いのか?」と言う思いがその罪”なのです。
でも、しばしば聞く言葉ですし、一見悪い意見とも思いません…しかし聖書は、そこには、”心の王座を神に渡さず自分が居座る…ダビデの罪がある”と言うのです。
”自分が心の権力者として居座る、このダビデの罪は、貪りを生み、その欲が満たされないと、妬みを生む”のです…これらは、”人間関係を破壊し悲劇をもたらす罪”なのです。
”偽証も、盗みも、人殺しにしても、その根にあるのは貪りの心なのです”…この人と人とが傷つけ合う”貪りの罪がある限り、人は本当の意味で隣人と共に生きる事は出来ない”のです。
”教会は、キリスト躰です…1つ躰となる共同体”です。…それ故、”神はキリスト者に対して「あなたは、この貪りの罪からの聖めを祈り求めるか?」と問う”のです。
では、どうしたら、この貪りの罪を断ち切る事が出来るのでしょうか?
使徒言行録20章32〜35節で、パウロがエフェソの教会に対して語った遺言が記されております。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方を委ねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされた全ての人々と共に恵みを受け継がせる事が出来るのです。私は、他人の金銀や衣服をむさぼった事はありません……主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました」。
この「受ける」と言う言葉は、原文では「取る」との意味の強い言葉が使われております。
「人から取るよりも、与える方が幸いだ」との主イエスの言葉を、パウロは遺言の中で思い返しつつ「私は貪った事が無かった…私の人生は貪りの心との戦いだった。私は与える事に生きる事が出来た」と人生を振り返って総括し、エフェソの教会にも「教会に生きる(キリストの躰と成る)と言う事は、貪りに打ち勝つ事、与える生活の祝福に生きる事である」と言って遺言を終えたのです。
遺言は重いものです…パウロは”「教会は与え合う事を覚える所だ」と私共に語ります”…何故なら、”教会は、主イエスから恵みが与えられた者達が、1つのキリストの躰として生かされている所だから”です。
その様に,”神より恵みを頂た者が、今度は与える事に生きるのです”…「受けるよりは与える方が幸いである」と言う、主の御言葉をしっかり受け留め、何時も思い起こしつつ生きるのです…そここそが「貪りの罪」から解き放たれる所なのです。
「与えなさい」との主イエスの言葉を思い続ける時、私共は、「如何に根深く貪りの罪が心にあるのかに気づきます。罪への鈍さを悟るのです…そして、その度毎に座して悔い改め、貪りの罪より聖められ続けるのです。
この様に、”十戒は、神を畏れ愛する事と共に、隣人と共に歩む祝福を得させる”のです。共に、この自由と祝福の道を祈り求めて参りたいと願います。