「陰府に降られたキリスト」
受難週
Tテサロニケ4:14
4:14 イエスが死んで復活されたと、私達は信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
ルカ16:19−26
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、遙かかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「陰府に降られたキリスト」
今日から受難週が始まります。二千年前の今週の金曜日、神の独り子が、十字架にお架かりになられました。
それは私共の罪に対する神の審きを身代わりに受けて下さる為でした。ですから今週は、十字架に向かわれたキリストに心を留め、1日〜を過ごすのです。
今朝,私共に与えられている神の言は、Tテサロニケ4:14と、使徒信条の中の「十字架につけられ,死にて葬られ,陰府に降り〜」の所でございます…此処から、”十字架からイースターの朝の復活までの3日間になされた主イエスの御業”について聴いて参ります。
先週、私共はキリストの十字架について聴きました…「十字架が、私共の罪の贖いの為であった事、そして、その為にキリストが神に呪われた事」等…そこには、”神と御子キリストとの痛みの愛が溢れていた事”を心で聴きました。
しかし、「これを信じ告白したら救われる」という事を語る”使徒信条”は、”キリスト教の根幹である十字架について「十字架につけられ」と、一言で済ませ,それに続く事の方を,「死にて葬られ,陰府に降り」と詳しく語る”のです。
何故でしょうか?…それは「私共に重ねる事が出来る事柄だからです」。
土居教会では、礼拝毎に共に使徒信条を告白しております…しかし、時として自分の告白の思いが薄れてしまい他人事の様に唱えている事は無いでしょうか?
確かに、使徒信条の第一条は、「神に対する信仰告白」で、第二条は「キリストに対する信仰告白」であります…此処までは,神とキリストに関する、”信ずべき事柄”です。
しかし、それに続く「死ぬ」と「葬られる」という事は、”何時かは誰もが経験する事”…つまり”私共の問題であり…決して他人事でない”のです。
聖書は、”死は罪の結果として刈り取る実”だと言います…としますと「本来、罪の無いキリストにとってこそ、死は他人事だった」のです。
しかし、”主イエスは私共の罪を背負い、死ぬべき罪人として十字架上で死なれた”のでした…その死の確かさは、ロ−マ兵が脇腹を槍で刺し、その時「水と血が流れ出た」事にございます”。
それは、”血清と血のり”でありまして、”破裂した心臓にあった血が,時間が経って分離していた証拠”でした。また、”使徒信条”も、「イエスは死んで葬られた」と明確に語るのです。
或る神学者は次の様に語ります。
「イエスの死によって、『もはや、誰一人、独りぼっちで死ななければならない』と言う事は無くなった〜。『イエスと共に』という事により、死はもはや望み無きものではなくなった。一切の命の根源である神から切り離されるという事こそ、死の厳しさであった。しかし、イエスが死んで下さった後には、誰一人としてそういう死に方をする者はなくなったのである」と…。
この言葉には、”人が死ぬ事の本質”が語られております…”死の本当の恐ろしさは、「肉体がこの世から消えてしまう」事ではございません…「神の御顔がそこでは見えない」…神から永遠に断絶される事”なのです。
先程、詩篇88篇を共に交読致しました…驚く程深い絶望の歌でした。しかし、この様な”「死の闇」を知る事は神の御心”なのです。
この詩篇88篇の15節には「主よ。何故、私の魂を突き放し、何故、御顔を、私に隠しておられるのですか?」とございます。
伊予三島のカトリック教会の神父さんが,日本に赴任したばかりの時の説教で「私の心には望みがあります」という所を「私の心にはネズミがあります」と語ってしまい。皆、ポカンとして聞いておられたそうですが、”「死によって…愛と望みと慰めと癒しと平安を永遠に失う」事程の厳しい恐れはないのです。
ロミオとジュリエットの様に愛する者と心中したとしても、”死には独りで赴く”のです…しかし”主イエスは,その闇に向かって下さった”のです。
もはや「死に臨む時にも一人ではなく、主が共に居て下さる」のです。私共は,”究極の絶望である死において、この「死んで葬られた主に支えられる」”のです。
さて”使徒信条”は,「死んで葬られた」主イエスが、「何処に行かれたのか?」をも記します。
主は「陰府に降って行かれた」のです。今日,日常会話で「陰府」と言う言葉を使う事は殆ど無くなりました。黄色い泉と書いて「黄泉」という字は時折目に致しますが…。
この「陰府」と言う言葉には、「闇が支配する国」という意味もございまして「死の国」の姿を言い表しております…”主イエスが死んで葬られた後に行かれたのは…神の光が一切届かない闇の世界”でありました。
TVや映画で、ヨーロッパの葬儀を御覧になられた事があると思います…墓地に棺を運び、土の中に埋めて参列者が土を投げかけるシーンです。実はその時「土から取られたものだから土に帰れ」と創世記3:19節の御言葉を唱えながら,3度土を投げかけているのです。
日本の葬儀では、”土に帰ると言う事を余り強調致しません”。それは、”何も無い所に行く恐れがあるからでしょうか?…そうした現実に対する解決が無いからかも知れません。”
しかし、主イエスはそこ迄行って下さったのです…詩篇139:7〜8に「何処に行けば/あなたの霊から離れる事ができよう〜御顔を避ける事ができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます」とございます。
此処に解決があるのです…”土に帰ってしまう様な虚無の中にあろうとも、絶望の闇の中にあろうとも,主イエスが居て下さる”のです。
居て下さるだけでは無いのです…”主イエスは陰府の国から3日目に甦られた”のです。
「陰府に降られたキリスト」…そこで主は,”十字架の成就を告げて歩かれ、そこにアダムを始め、アブラハムやダビデ等、先に眠った全ての信仰者達がついて歩いたのです…そして3日目に、主は天のパラダイス(楽園)にそれらの信仰者を携え挙げた”のでした。
此処で、「陰府の国」について、もう少し詳しくお話します。
ルカ16:19−26には、”金持ちと,ラザロというできものだらけの貧しい人が死んでから行った「陰府」という所が描かれております。22節では「アブラハムの懐」と表現されている所です。
確かに,そこは神の光が届かない所でしたが、2つの世界があったのでした。
1つは、「アブラハムの懐」と言われる,地上の生涯を神と共に歩んだ者達が行く「慰めの所」”であり,2つめは、私利私欲に生きた冷たい心の金持ちが行った「苦しみの所」…神を拒否して生きた者達が行く所”でありました…そして,両者の間には越える事の出来ない大きな淵があったのです。
”闇に覆われた「陰府の国」にも、神の憐れみが届く所があった”のです。
そして主は、アブラハムの懐である「慰めの所」に居た者達を、天に携えて行かれたのでした。
「何故、神を信じて生きた者達なのに、”天のパラダイス(楽園)へ行けずに、地の底の陰府に居たのだろうか?」と思います。
それは「信仰者と言えども罪人だからです…動物の血は罪を完全に贖う事が出来なかった為,彼等は十字架の贖いが完成する迄,天へ行く事が出来なかった」からでした…”主は陰府にあって、彼等を救う為、甦りに向かって歩いておられた”のでした。
主イエスが十字架上で,隣で十字架に架けられている強盗に、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」と言われました…その言葉から、私共は、”主イエスが十字架の後に、地の底の「陰府」を天の楽園へと移して下さった事を知る”のです。
”Uコリント5:8にも「私達は心強い。そして、体を離れて、主のもとに住む事をむしろ望んでいます」とございます…十字架の後「死の国」が、望みに満ちた所へと変えられた”のです。
しかし,誤解されないでください。パラダイスは,天国ではないのです。
Tテサロニケ4:14で「イエスを信じて眠りについた人達をも、イエスと一緒に導き出してくださいます」とあります様に、”パウロはパラダイスに居る人々の事を「眠っている」と言う”のです。”やがて主イエスが再臨してもたらして下さる「新天新地」こそが「天国」なのです。
その時、パラダイスにて、主の身許で眠っていた人々が新天新地に引き上げられる”のです…正に,十字架からの3日間は,そんな世界を切り開かれた時だったのです。
「主イエスが十字架で死んで葬られ陰府に降って下さった」事には、これ程大きく深い救いがあったのです。
”この受難週、私共は自分の為の十字架として悔い改めを持って見上げると共に、私共が主イエスと共にパラダイスで天国を待ち望む者とされた事に感謝を献げる時として頂きましょう。”