「御声を聴く祭壇

出エジプト20:18〜26
20:18 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、
20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
20:20 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」
20:21 民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
20:22 主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。
20:23 あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
20:24 あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
20:25 しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。
20:26 あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  御声を聴く祭壇
 

*モ−セが神より受けた十戒を語り終えた時,”神は,雷と稲妻、それに角笛の音と山全体が噴煙に包まれると言う壮大なスケールによって御顕現されました”。”御臨在をもってイスラエルの民を覆った”のです。

驚きの余り蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した民は、遠くから、その光景を眺めながら「私達は神の言に聴き従いますから、神様に自分達に直接語られない様にお願い下さい…そうでないと、自分達は死んでしまいます」とモ−セに願ったのです。

聖なる神に触れた時、民は自分達の汚れに気づき、このまま神の御前に出たならば、たちまち恐ろしい怒りに触れると感じ「あー、このままでは死んでしまう」と言ったのでした。

 しかし、モ−セは違いました。

かつて”燃え尽きる事のない柴という神の御臨在”の中から、神の御声を聴き出エジプトへと遣わされ…その後、海を二つに分けて民を救い、火の柱、雲の柱をもって導き、マナを降らして養って下さる神の真実を見続けて来たのです。モ−セは、それこそが神の臨在だと知っていたからでした。

そこでモ−セは民に「今、神が直接語られたのは、人々を滅ぼす為でなく、人々が神を恐れて罪を犯さなく成る為なのだ」と語り諭したのでした…”正しく神を畏れ、御言葉を正しく畏れる事は私共を守り導く”のです。

思えば聖書学院時代、K教授の前に出ると身が引き締まった記憶がございます。しかし、その緊張は、義父から虐待を受けていた子供の時、父の顔を見ると躰がビクッと飛び上がった恐怖とは違うものでした。「先生に喜んで頂ける様な者に成長したいと言う緊張感でした」。

モ−セがこの時語った、「神を恐れて罪を犯さなく成る事」と言うのも,”聖なる神の御目の前に生きるという緊張感の事”なのです。

 しかし、神への恐れの余り、モ−セの諭しを聴こうとしない民の姿を見てとったモ−セは、1人で神に近づいて行ったのです。そして、この後、神はモ−セに対してのみ御心を語られる様に成って行きました。

この時、イスラエルの民は「神を正しく畏れ,神に語って頂く事を学ぶべき」でした…しかし、民はそれを拒否したのです。それが、どんなに大きなものを失う事に成るかは、その後の歴史が語ります。

この後,神の民はだんだん減って行き、1500年後、”主イエスが十字架に架けられる時には、”神の民はイエス1人”のみになって行く”のです。”イスラエルの民が、神の御声を聴く事を拒んだのは間違った選択”でありました。

 しかし”神の民としてたった1人十字架の上で残った主イエスは、その十字架を通して、新しい神の民を生み出した”のです…それこそが”キリストの躰なる教会”であります。

 神は、”新しい神の民である私共にも「神の御声を聴く事を求めておられる」”のです。

では、私共は神の御声を聴く為,どの様な備えをすれば良いのでしょうか?

24節で神は「あなたは私の為に土の祭壇を築き、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上に献げなさい」と言われました。

土の祭壇というのは、最も古い型の祭壇です。神は「その祭壇の上で、生贄の羊や牛を焼き、私との和解を求めなさい」と求められたのです。

 人間は罪に汚れていますから、聖なる神の御前に出る事は許されません。神は、罪とは決して相容れない御方なので、神の御前で罪人は滅ぼされてしまうのです。

 しかし、そうなると全ての人が殺されてしまうのではないか?…とも思います。その通りですが、それでは何もかも終わりです…そこで神は、この旧約聖書の時代には、”羊や牛の命を人間の命の身代わりとされた”のでした。

羊や牛は、当時、生活の糧であり、命の次に大切でした…そんな犠牲の生贄を、祭壇の上で殺し血を注ぎ出したのです。”血は命とされていたから”でした。

 大切な〜家畜が悲鳴の中で殺されて行く様は、献げた側も身が裂かれる様な儀式だったのです。

しかも、その屠られた生贄の肉は、食べる事も売る事も許されませんでした。

 「焼き尽くしなさい」…それは、”全てを献げる事”を意味します…全てを献げる痛みをもって「神よ、どうか私の罪を赦し私と交わって下さい」と、「神との和解を切に祈り求めなさい」と言う事でした。

その様な”痛みを神は1年毎に求められ”たのです…”動物の命では、罪の贖いが不完全”だからでした…そこで、”時満ちた時に、神は一人子を神の小羊として、この世にお送り下さった”のです。

”十字架は「神の小羊イエスが生贄として焼き尽くされた」”ものだったのです…そして、その”神の小羊による贖いは、完全で1度限りのもの”であります。

 ガラテヤ3:13「キリストは、私達の為に呪いとなって、私達を律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」…此処に「贖い出し」とございますが、”奴隷を代価を払って買い取り、自由を与える時に用いられた言葉”で,「代価を払って買い取る」と言う事なのです。

 では,何から「贖い出す」のでしょうか?…「律法の呪い」からです。

「呪い」というのは、「徹底的に神に突き放され捨てられる」という事です。”何時如何なる時も、神と一体であったイエスが初めて神に突き放された”のです…”かつて誰一人、神に捨てられた人などいないのに、神の御子が捨てられたのです。

人は初めて罪を犯す時、ドキドキします…しかし、やがて慣れてしまいます。しかし、主イエスは罪を犯した事の無い方でした。しかも、全ての人の罪を背負わされ、そこに神の呪いが注がれたのです。

それは口では表現出来ない孤独と絶望と恐怖”であったと思います。”主イエスだけが、私共の罪の恐ろしさ、神の審きの恐ろしさを経験され”たのです。 

 ある牧師が、この時の主イエスの恐怖を教えて下さいと1年間祈り続けていたそうです。

ある時、突然、目の前が真っ暗になり、全身の細胞が凍り付き全細胞が砕け散る様な恐怖と孤独を感じ、耐えきれないと思った時に現実に戻どされ…そこにひざまずいて祈られたそうです。

”主イエスは十字架で、その様な神の呪いを受けられて、私共を「買い戻して」下さった”のです。

また、”光なる神も、光る事が出来ず全地が闇に覆われる程に痛んでおられた”のです…”十字架は神が愛する一人子を呪う痛みを献げ尽くして下さった所でもあった”のです。

父なる神と御子は、その様な「代価を支払って私共を永遠の滅びから買い戻して下さった」のでした。

 昔、ギリシャの国に夜な夜な国中を荒らし回る泥棒がおり、烈火の如くに怒った王が、国の威信をかけて泥棒を捕らえた所、犯人は王子だったのです。

この王は正義を貫く人であり、裁判官でもありました。いよいよ裁判の時が訪れました…沈黙の時間が流れ、人々が固唾をのんで見守る中、王は自分の剣を抜くが早いか、自分の眼球に突き刺してえぐり出してしまったのです。

その激しい痛みの中から「これによって我が子の罪を赦して欲しい。あなた方が望むなら、私は我が子の為に、もう1つの目をもえぐり出そう」と言って息子の命を救ったのでした…”十字架の贖い”は、”目よりも重い、神の一人子の命が身代わりに献げられた”のです!

 ヨハネ20:31に「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」とございますが、この”「御子の十字架の贖いは私の為であった」と信じる事こそ「祭壇を築く事」”なのです。

そして、この祭壇こそ,”神に罪赦されて和解し、神の御声を聴くと言う救いの道”であります。

24節に「あなたは、私の為に土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物〜をその上に献げなさい。私の名の唱えられる全ての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福する」とございます。

”土の祭壇”は、”土のある所なら、何処ででも礼拝出来る祭壇”です…そう考えますと「岩で祭壇を築く時、のみをあててはならない」という続く言葉も「岩のある所なら、加工道具が無くとも神を礼拝する事が出来る」事であると見えて参ります。

 「私の名の唱えられる全ての場所において、あなたに臨み祝福する」…つまり、”何処ででも、祭壇を築く者…つまり、十字架を信じる者に、父なる神は臨み祝福する”と神は言れるのです。

 また最後に記されております「階段を祭壇につけ祭壇に登ってはいけない」や、「あなたの隠し所を現すな」等の戒めも、”礼拝と言う祭壇に関する事”です。

「階段で祭壇に登る」というのは、バベルの塔の様に、”高い所に登って神に近づこうとする行為を指して”おります。また、”隠し所は「裸」の事”であり、”恍惚状態によって、神に近づこうとする事を指している”のです。

これらは、”人間的な手段や方法では、決して神と和解し神の御声を聴く事は出来ないと念を押している”のです。”神と和解し御声を聴く道は、ただ1つ…「神の小羊として屠られた十字架の贖いを信じる」という「心の祭壇を築く以外に無いと聖書は語る」”のです。