「イエスの問い」マルコ8:27〜30

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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  イエスの問い

*今朝の箇所は、”構造的にも意味的にも、マルコ書の分水嶺的な所”です。

主イエスと弟子の間でとても重要な会話がなされるのです。そして、その舞台となったのが、フィリポ・カイサリアという場所でありました。

 フィリポ・カイサリアは、主イエスの活動領域の北限であり、この出来事の後、主は十字架にお架かりになる為に一気にエルサレムに向かって南下して行かれるのです。

さて、フィリポ・カイサリアはどんな風景の地でしょうか?

辺境の地と言う事から、荒野の風景を思い浮かべられる方が多いのではと思います。

しかし、実際は、ヘルモン山という富士山によく似た山の麓にある為に、山の水が泉となって湧き出して、それがやがて、あのヨルダン川の流れを作り出して行くのです。豊かな水と滝の音が聞こえる、緑の濃い日本の様な風土の地なのです。

そうした豊かな自然の中で、ペトロの”信仰告白”がなされた事には意味がありました。

 風光明媚な所…それは、直ぐに権力者の手におちる所であります。御多分に漏れず、この地も、イスラエルを占領していたロ−マの皇帝カエサルの手がついたのです。

 そしてユダヤの王ヘロデが、この地をロ−マの皇帝より貰い受けた時、皇帝を称えて、皇帝を意味するカエサルとの称号をとって、カイサリアと地名を付け、皇帝を神とする神殿を建てたのです。

ユダヤ人の王が、ロ−マ皇帝を神とする神殿を建てたのでした。この様な自然の美しい所だからこそ、人間の罪深さが浮き彫りになったのです。

 その様な、”闇の中で人々の求めるメシアによる救いが、主イエスが与える救いとズレ始めて行った”のです。

今朝は30節迄お読みしましたが、31節には「3日の後に復活する事になっていると弟子達に教え始められた」と書かれております…主イエスは”十字架の3日後に復活されるメシアを教えられる”のです。

この「教える」と言うのは「教育する」との意味の強い言葉が使われております。

主イエスは、こうした世の罪が浮き彫りにされる様な中で「メシアとはどの様な御方か?メシアによる救いとは何か?」を弟子達に教育されたのです…そして、これから十字架に至る迄、主イエスは、この1つの事を教育し続けられるのです。

  
T、主イエスの問い

 先程申しました様に、此処はマルコ書の折り返し地点であります。

”主イエスは、この時以後、御自身のゴールである十字架を見つめ抜いて行かれた”のです…しかし、”弟子達には、メシア(救い主)のゴールである十字架が見えていなかった”のです。

 主イエスが、前回の所で盲人の目に2度も手を置いて目を開かれたのも、此処から始まる教育も”メシアに対する目を開く為のもの”だったのです。

29節に「そこで、イエスがお尋ねになった」とございます。原文に忠実に訳しますと「そこで、イエス自らがお尋ねになった」となります。

”主が御自分から身を乗り出す様にして「あなた方は、私を何者だと思うのか?」とお尋ねに成られた”のです…おそらく、この時、時が止まる様な緊張が走ったと思われます。

 ペトロは「あなたはメシアです!」と答えました…そして、このペトロの告白こそがマルコ書の頂点となる言葉なのです。

またペトロの告白は、彼1人だけの告白では無く教会を代表する告白でもございます。

そして此処には”私共の礼拝の在り方も現れている”のです。

”「礼拝は、説教が良く分かったから、説教に感動したから良い礼拝だったとか、賛美で心が満たされたから良かった」と言うものでもありません…主イエスに対し「私の救い主」と告白する所なのです。

”礼拝は、私共への語りかけとして「神の言を聴き」、主イエスを見上げ、主にひれ伏しペトロの様に「あなたはメシアです。私の救い主です」と告白する所”なのです。

昔、時折教会に見えられる求道者の方から「教会に出入りしていると社会の目が気になる」と伺った事がありました。

確かに私共は、町の人々に「あの人はキリスト者なのか?」と見られているかも知れません。しかし私共は”誰よりも主に問われているのです…「あなたは私を何者と言うのか?」と…”。 

  
U、正しいメシア理解

 主イエスは同時に弟子達に、「人々は私の事をどう見てるか?」とも問われました…それは、”メシアへの正しい理解を引き出す為”でありました。

 弟子達にとっても仕事を放り出してついてきているイエス様です。彼等自身「人が主イエスの事を何と言っているかと聞き耳を立てていただろう」と思われます。

 弟子達は主イエスに「人々はあなたをバプテスマのヨハネの再来だと言っています」と言ったのです。

バプテスマのヨハネは、ヘロデ王が兄弟の妻を横取りした事を、あからさまに非難した為、ヘロデ王に存在を恐れられ殺された人物です…権力は人を殺す力さえ持つのです。

 権力の影に覆われる中で、人々は、”権力者を打ち負かしてくれる力あるメシアを求める様に成って行った”のです…それゆえ、かつてヘロデ王を怯えさせたバプテスマのヨハネの再来や、最大の預言者だったエリヤの再来を期待したのでした。

”メシアを力を持った改革者として期待したのです。まだまだ救い主に対する理解が不十分だった”のです。

 ペトロには、”人に裁かれ殺されてしまうメシア”は考えられない事だったのです。

33節に進みますと、主イエスは、ペトロ達の”誤ったメシア観を打ち砕く為”に、”ペトロを「サタンよ引き下がれ」と叱責される”のです…と同時に、「主イエスは、御自身こそが十字架の死と復活のメシア」である事を弟子達に教育し始められたのです。

 主は、更に34節で「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われます。

”メシアの道は十字架の道”なのです。

それゆえ、”十字架のメシアを思わないペトロを、主は「サタン」と呼び”、私共にも「十字架を負って、神の救いがどんなものなのか知りなさい」と言われたのです…”十字架のメシアこそが正しいメシア理解”なのです。

  
V、ひたすら思うべきメシア

 33節を見ると、主イエスはペトロを叱って「あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている」と言われるのです。

そこの「思う」と言うのは、”何時も同じ事を思う”という事です。「ふっと、気づいた時に、何時でも神様を思っている」という事なのです。

先日、幼い金田ちひろちゃんが心臓の手術をされましたが、肉親の方々の心は、何時も気持ちがそこにあったと思いますがそういう事なのです。

 また、此処にある「人間の事を思うな」との言葉も、”「祝福は人間からではなく、神様の所から来ると思いなさい」”という事なのです。

滾々と湧き出る水源地の如く、「命の水の水源地である主の事をひたすら思いなさい」と主は言われたのです。

ヨハネ第一の手紙2:24に「イエスが神の子である事を公に言い表す人は誰でも神がその人の内に留まって下さり、その人も神の内に留まる」と言う事が記されております。

”イエスが神の子である事を公に言い表す人の内には、その人がどんな人であったとしても、聖霊なる神が、その人の内に既に住んで下さっており…その人も神の内に住んでいる”のです。それ故、神と思い合う事が出来るのです。

 主イエスの内にあって何時も主を思う者に対して、主は、湧き出る水がヨルダン川の流れに成る様に、”命の水の水源地である主イエスによって人生が豊かな川と成って行く”のです。

 主イエスは、”「私を何者だと思うか?」と問われました…主をどんなメシアと信じるかで私共は「立ちもするし倒れもする」”のです。

十字架の下で、主を裏切り散らされて行った弟子達でしたが、”聖霊を受けて、十字架の救いを知った時、彼等は立ったのです。

やがて十字架を負い、迫害の中で教会を造って行った”のです。”礼拝の歴史が始まった”のです。そして、その流れの中に私共も置かれているのです。

今朝、”私共も、メシアなる主に、生かされ、救いに預かり立つ者となる為に、主イエスは私共にも問うのです「あなたは私を何者だと言うのか?」と…”。