「主イエスの後ろを歩むとは?」
マルコ8:31〜9:1
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
主イエスの後ろを歩むとは?
マルコ8:31〜9:1 @
*今朝学ぼうとしております。マルコ8章31以下の箇所は、非常に大切な所でありますので、今週と次週の2回に渡り学んで参ります。
ペトロの”「あなたこそメシアです」との信仰告白”を受けられた主イエスは、此処で初めて”御自身を「人の子」と呼び、これから十字架で殺され、3日の後に復活される事を公言され”ました。
そして32節には、主は「その事をはっきりとお話になった」と記されています。
この「はっきりと」と言う言葉は、原語のギリシャ語には「大胆に、公然と、あからさまに」との意味もあり…主イエスは此処で、”今迄と違ってハッキリと、御自身の十字架と復活の事を語られた”事を強調しているのです…そして、それは、”十字架が確実に足音立てて近づく事を意味しており”ました。
主は十字架を負われる覚悟をもって此処で公言されたのです。
もう1つ,此処で私共が目を留めておかなければならない事がございます。それは34節にある「群衆をも弟子達と共に呼び寄せて語られた」という事です。
主イエスは群衆に迄、御自身の十字架を公然と語られたのです。今朝は、主イエス御自身が、メシアである事を公言された時、それを諫めたペトロが逆に主に叱責された出来事を通して”「自分の十字架を負いなさい」と、私共も招かれている十字架”について学んで参ります。
T、主イエスの叱責
先の30節で、弟子のペトロが「あなたこそ、メシア、救い主です」と告白した時、主イエスは、その事を「誰にも話さない様に」と言われながら、その直後、群衆の前で自ら公言されたのです。
「この突然の変化は何故?」…と皆さんも、お思いになると思いますが、”その謎を解く鍵が、主イエスがペトロを叱られた事にある”のです。
”主イエスの叱責…しかし、その前にペトロの主イエスへの叱責があった”のです。
群衆の面前で、あからさまに十字架のお苦しみと復活をお語りになられた主に対し、ペトロが「イエスを脇にお連れしていさめ始めた」のです…それは教師が生徒を職員室に呼び出して叱る姿に似ています。
ペトロは、先生のつもりになって、主を呼び出して「その様な事を今、此処ではっきりと言われたら困るじゃないですか」と叱ったのです。
しかし、主イエスは、そんなペトロに対して逆に「サタンよ、引き下がれ」と叱責されたのです。
このサタンと言うのは、”主が公生涯に入られる前に、荒野で40日40夜断食して祈られた直後に、その神の力で、この世の権力者に成ったらどうか?と誘惑したサタンの事です。
主はペトロに「あのサタンの様に私を十字架から引き離す導き手になるな」と言われた”のでした。
更に続く、「引き下がれ」との言葉は「向こうに行ってしまえ」と言うものではなく、「私の後ろに廻れ…私の前に立つな」との意味があるのです。
この時の主イエスの叱責には”「ペトロよ、あなたは、もう1度、私の後ろに廻って私の弟子に戻りなさい」との思いが込められていた”のです…そして、これは、”主イエスの背中を見つめながら、主の御足の跡を踏み従う、私共の聴くべき言葉”でもあるのです。
U、自分の十字架を負いなさい
ペトロは、主イエスに「サタンよ、引き下がれ」と叱られました。
その時ペトロは、「主イエスともあろう人が、何とキツイ言葉を…」と思ったに違いありませんが、後に、”「主の後ろに廻って聴き従えない自分の本質」に気づいた時には、「私を造り変えて下さい」と切に聖霊を求めた”のです。
或る大学の教授は、学生に研究発表させた後、必ず「それで何が分かったのだ」と聞くのだそうです。
一生懸命発表した学生にとっては立つ瀬がない言葉です…思い余った学生達から「何故、そんなふうに言われるのですか?」と問われた時,教授は「分かるという事は、分かった時に、自分自身が変わるものだ」と答えられたのだそうです。
親子や夫婦間でも、「分かった〜うるさいな」とか「はい、はい」と聞き流す返事をしている内は同じ事を繰り返す事は思い当たるのではないかと思います。”此処で主イエスが、私共に求めにられている事も「分かった時に変わる」事”でありました。
「サタンよ、引き下がれ」…これは、「自分中心の生き方から、徹底的な主の僕と変わりなさい」と言う事なのです。
「主イエスが、そんな厳しい事を求められるから教会の敷居が高いと言われるんだ」との声が聞こえて来そうそうです。
しかし、”主の厳しさには意味が有る”のです…「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為、また福音の為に命を失う者は、それを救う」のがその意味です…”私共の命を救う為の切なる愛ゆえの厳しさ”なのです。
此処で用いられている「命」と言う言葉には「魂、心、本当の自分」との意味もございまして…”主イエスは此処で私共に「私の後に付いて来る生き方をするならば、あなたは自分の魂を救い、本当の自分を生きる事が出来るのだ」と言われた”のでした。
宗教改革者のカルヴァンが書いたジュネーヴ教会教理問答という書物がありますが、その最初の問答は、「人生の主な目的、人生の最高の目的…は何か?」と言うものです。
”カルヴァンは「それは、神を知る事である」と答えました。
”どなたも「何故、神を信じ礼拝しなければならないのか?」と疑問をもたれた事があるかと思いますが、その”答えは…人間は、神を知る事が出来る、神と交わる事の出来る存在として唯一造られた被造物”と言う事なのです。
人は神を知り神と交わる事なしに、真の心を満たしを受ける事も、人生の目的を見出す事も出来ないのです。
そして”人生の目的を、神を知る事に定めている人は、決して道を踏み外して滅んでしまう事なく救いに至る”のです…しかし、”神を信じない人生は、人生の目的を外してしまい”…時に獣以下になってしまうのです。
”神を知る、神の救いを知る人生は、主イエスの後ろを付いて行く中で経験する”のです。
ジュネーヴ教会教理問答の次の問いは「人間にとって最も幸せな事とは何ですか?」というものです。
…その答えも「神を知る事こそ、それです。それは何故か?…神の祝福を信頼して生きる事が出来る様になるからだ」と言うものです。
”神の祝福は、主イエスが共に居て下さると言う事…主の背に背負われている事です”。
確かに、どんな出来事の中ででも、「今の自分は、主の祝福の中にある」のだと、「私が見つめている主イエスの背中に背負って頂いているのだ」と心から信じる事が出来る程、幸せな事はありません。
喜びの中でも、悲しみの中でも、主イエスにあって自分らしく生きる事が出来るのです。
そして、これらの”祝福を知る為にこそ、私共は主の後ろに下がって御足の跡を踏んで行く”のです。主イエスは言われます「あなた方の幸せは此処にこそある…私は十字架につく。あなた方も、あなたの十字架を負いなさい。それが私の後を踏んで行く事だ」と…。
しかし「十字架を負うだなんて、そんな事が自分に出来るのか?」と心の中で漏らしたくなるかも知れません…勿論、その十字架は、主イエスの十字架(人々の罪の身代わりの十字架)ではございません。”自分の十字架”なのです。
主イエスは「私について来たいならば、自分を捨て自分の十字架を負って来なさい」と言われたのです。
”主イエスの後について生き始め様とする時、それは愛に生き始める時であり、十字架を負って歩き始める時”なのです…”人を愛する事は十字架を負う事”だからです。
全四国修養会でM兄がお帰りになる時、温泉の入浴券を下さいました。「どうして入浴されて帰らないのですか?」とお聞きしたら「子供が風邪をひくから」と言われたのです…入浴されたいのはやまやまだったと思うのですが、幼い子供さんの事を考えられたからでした。
私は、「親の愛に生きる事は犠牲を払う事だ」と思わされました。子供を愛し抜いて行く事も、何処かで自分を殺して行かなければ出来ないのです。
”主イエスに拠らなければ、子供さえ愛せない事を知っている所に、自分の十字架を負う道が始まる”のです。そして、”この思いが私共を新しく造り変えて行く”のです。
”「自分を捨て、自分の十字架を負いなさい」と主は言われます”…しかも、”主は群衆に向かって語られた”のです。それは、”誰もが聴くべき御言葉であり、私共が振るいに掛けられる御言葉”である事を意味しているのです。
”正に礼拝は、主イエスの背中を見つめて、この御方の前に立ってはいけない事をわきまえると共に、「私の背中を見つめて、あなたの十字架を負いなさい。私は、その上に大いなる御手の業を現す」との御声をかけて頂く幸いな時でもある”のです。