「第七の戒め」
出エジプト20:14
20:14 姦淫してはならない。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  第七の戒め


*今朝は新年最初の主日です。今年も宜しくお願い致します。

今朝は出エジプトにある”十戒”の”「姦淫してはならない」と言う、第七の戒め”です。

この”戒め”程、現代社会が聖書の基準から遠く離れているものはございません。

 新約聖書に成りますと「姦淫してはならない」との戒めを、主イエスの「情欲を抱いて女を見る者は〜」との言葉によって、更に深くなって参りますが…この十戒で言う”姦淫は不倫の事”です。

それがいけない事は社会常識ですし、多くの方々は”縁のない戒め”と感じられているかとも思います。

 キリスト教系の育児院(昔の孤児院)の職員の方からこんな話を伺った事がありました「昔は、戦争などで親を失った子供が大半でした…しかし、戦後、父親が浮気で出て行くケースが増え、今は母親の浮気の為に預けられる子供が爆発的に増えている」と…。

昔は生きる事で必死だったのが、今は”ゆとりが快楽を求める生活スタイルを生み”、親である事よりも自分の欲望を制御出来ない人が増えて来たのではないかと思います。

 また近頃は「自分が幸せになれない伴侶ならば離婚した方が良い」との考え方を良く聞く様に成って参りました…しかし、その理由は神の御旨に叶っているのでしょうか?

確かに、”危機的な場合の離婚は仕方がないかも知れません”が、それでも”離婚は危機回避の為の「より小さな悪」なのです”そこには祈りが必要なのです…何故なら、”神の結婚に対する御心は、伴侶と生涯連れ添う事”だからです。

今朝は、この戒めから”結婚の神聖さ”と、それを壊す”姦淫の罪”の恐ろしさを学んで参ります。

  
T、踏みにじられて来た戒め

 或る青年から、この様な話しをお聞きした事がございます…「今の男女交際は余りにもファッション的で直ぐに相手を変える替える。確かに夢中に相手を好きになる子もいるが、直情的で、直ぐ肉欲に走ってしまう。犠牲の愛などの深い愛、長い人生を大切にした愛が見えない…まして”純潔”の大切さを訴えても理解されない」と語っておりました。

確かに、誘惑が溢れる現代において”純潔”を貫く事は困難だと思います。しかし、この様な風潮の下、日本では、毎年、実質500万人もの胎児が人工中絶によって殺されているのです。第二次大戦でナチスに虐殺されたユダヤ人の人数です。しかも、そうした”純潔を軽んじる”青春の過ごし方は”身も心も1つになる結婚をも困難にして行く”のです。

 しかし、この「姦淫してはならない」との戒め程、”甚だしく踏みにじられて来た「戒め」はありません。

ダビデ王も、自分の為に命まで捨てた忠実な家臣の妻と”姦淫”しましたし、あの”信仰の父アブラハム”も、何としても子供が欲しい為、妻の同意を得たとはいえ、女奴隷に子を産ませました…その結果、家庭に暗雲が立ち始めアブラハムの頭痛の種となったのです。

後に、その女奴隷の子イシマエルがアラブ人の祖先となり、今のパレスチナ紛争やアフガン戦争の種と成っているのです。

 この「姦淫してはならない」との戒めに人が背いてしまう原因は”性欲”です。この欲は、種族保存の為、神が全ての生き物に与えて下さったものです…しかし、神はこの欲を無制限に用いる事を許されませんでした。

結婚という制度を人類に与えられたのです。

 しかし、しばしば獣の様な本能に流された人の為に数限りない悲劇が起き、”性欲は卑しいもの”とされました。

それ程この”「姦淫してはならない」との戒め”は踏みにじられ続けて来たのです…”性欲”は、サタンが最も「神から人を引き離す道具として用いる」からです。

  
U、戒めが望むもの

 神が”結婚に望むもの”は”2人が身も心も1つになる”事です…しかし或るアンケートでは、”身も心も1つであると実感している夫婦は5%に過ぎなかった”そうです。

 これは結婚の奥義であり”深い愛と信仰と責任に支えられて初めて、「神が合わせられた2人が身も心も1つになれる」”のであり、そうした”責任を放棄した結婚の真似事”では、その愛を実現出来ないばかりでなく、時に人の心を深く〜傷つけるのです。

 にも関わらず、この”戒め”を重んじる事が出来ない程、”人の罪は深かった”のです…それ故、”主イエスが来て下さった”と言える程なのです。

 「神は結婚生活が幸せなものと成る様に求めておられます」…そこが大切なのです。

”結婚生活という場”は”自分の気が向く向かないに拘わらず、夫として、妻として心を込めて重んじる場”なのです…しかし、それは”1つの戦いの場”でもあるのです。

 昨年、土居町に参りました”武田鉄也”は「私は、結婚で幸せになった人を1人も知りません」と彼特有のブラックジョークを言っておりましたが、確かに余程相性が合わない限り、”お互いの欠点が目につき鼻に付き、欠けている所を受け入れる事が出来ずに参ってしまう”事があるのでは無いでしょうか?

しかし、そこでこそ”神様との関係”が問われるのです。

主イエスが私共にお与え下さった”アガペーの愛を、人との間に実現しようと生きるかが問われる”のです。

そして、その信仰は”先ず「夫婦」において問われる”のです…”相手の弱さを受け入れる、欠点を補い合う、相手の罪を赦すという事において”です。

 旧約聖書のホセア書を記した預言者ホセアは、”アガペーの愛の苦しみを神に実践させられた預言者”でした。

ホセアの妻は姦淫を犯しやすい人であり、すぐ逃げ出して淫行を繰り返し、挙げ句の果てに売り飛ばされてしまったのです。神様は、そんなホセアに対し、妻を捨てずに何度も赦し犠牲を払って買い戻させたのです。

それは、”神に対する浮気である、神を捨て偶像崇拝に走る「罪の重さと神の痛み」を預言者に教え神の民に語らせる為”でありました。

 ”ホセアは夫婦の愛を通して神のアガペーの愛の痛みを悟り語った”のです。

このホセア書の様に私共は、”夫婦の間において、隣人との間にあって、自分の全存在を賭けて愛し抜く戦いを戦うのです。

この”戦いを捨てる事”は、”神に対する関係を捨てる事…即ち、神に対し姦淫を犯す事”だと教えられるのです。

 昔、ドラマで、親を亡くし兄弟で力を合わせて生きていた家族がありまして、嫁ぐ妹に姉が「もし相手が、どうしても赦せない事を言ったとしても1度は赦しなさい」と言った言葉を思い出します。

まして”私共は、7度を70倍赦す主イエスを愛を受けたのです。日々、赦され続けている”のです…ゆえにキリスト者は”危機的な状況で無い限り、伴侶を赦し、受け入れる事に全力を尽くす”のです。

 この様に学んで参りますと、この”「姦淫してはならない」との戒め”は、単に「不倫してはいけない」ばかりではなく、「真実な結婚への戒め」であり、更に、”神とどの様な関わりに生きているのか?…が問われる戒め”だと分かって参ります。
 
此処で、結婚式の時に読まれるエフェソの信徒への手紙5章24節以下をお読み致します。

「教会がキリストに仕える様に、妻も全ての面で夫に仕えるべきです。夫達よ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになった様に、妻を愛しなさい…。その様に夫も、自分の体の様に妻を愛さなくてはなりません…。私達はキリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ二人は一体となる』この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなた方も、それぞれ妻を自分の様に愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」と言うものです。

 ”夫が妻を愛する”事は”キリストが教会を愛するのと同じ”だと言うのです。”夫は「キリストが十字架で死なれた様に」妻の為に死ねるか?と問う”のです。また”妻は、教会が主イエスに仕え抜く様に夫に仕え抜く”のです。

そして、それは”十字架の神の愛、キリストと教会の間の愛が、夫婦を1つにする”と言うのです。私は、厳しい御言葉を講壇の上から語っておりますが、自分自身が先ず、この御言葉の前に最も頭を垂れて聴くべき者だとつくづく思います。

 この様に、”アガペーの愛は「身も心も1つになる夫婦を造る」”道を開く奇跡であるのです…こうした”結婚”という神聖な場を体験しますと。そこに”姦淫の罪が入り込む恐ろしさも分って来る”のです。