「第八の戒め」
出エジプト20:15

20:15 盗んではならない。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  第八の戒め

*「盗難」という災難にあった事の無い方は少ないと思います。私も何度か経験致しました。

そうした中で忘れられないのが、私の初任地の教会員の方が、寝ている部屋の隣の部屋で多額のお金を盗まれたと言う事件です。もし泥棒に気づいていたら「どうなっていたか?」と思い「ゾッ」とした事を忘れる事が出来ません。

 只今より共に学びます十戒の”第八の戒め”は「盗んではならない」と言うものですが、今朝は、この「盗む」と言う罪を、聖書がどの様に語っているかを聴いて参ります。

  T、物を盗む罪

 先ず、此処でハイデルベルク信仰問答の問110を御紹介致します。

問い 「神は、第八戒においては、何を禁じておられますか?」

答え 「神は〜窃盗や強盗を禁じておられるだけでなく、不正な〜利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、
     暴力によるにせよ〜隣人のものを自分のものにしようとする、
    一切の悪い事、企てをも盗みとよばれるのであります。尚、これらに、全ての貪欲、
    自分に与えられた物の不必要な浪費をも加えるべきである」

 聖書は、”不正な手段で私腹を肥やす事、また浪費も「盗む」事だ”と言うのです。

確かに、泥棒の経験のある方は余りおられないかも知れませんが、万引き(コンビニや書店では大きな問題)やカンニング(人が努力して身に付けた知識を盗む事)、脱税、更に、”礼拝という神に献げる時間(神のもの)を、安易に自分の為に使う事”も同様なのです。 

 この様に見て参りますと、私共も「盗む」という誘惑にさらされている事に気づかされます。

そして、この「盗み」には2重の罪深さがあるのです…1つは「隣人を愛さない罪」であり、もう1つは「神に対する罪」…即ち「神は必要を与えて下さらないとの不信仰の罪」なのです。

  
U、人を盗む罪

 確かに「盗んではならない」という戒めは「泥棒」を指すものです…しかし、旧約聖書は、もう少し深い意味で述べております。

 出エジプト21:12〜17に「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる〜。人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは〜処刑する事ができる。自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人を誘拐する者は〜必ず死刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」。

 此処には”死刑にあたる恐ろしい罪とは何か?”が語られております。
 
”「誘拐する事」も死刑にあたる罪だとある”のです…この”誘拐する”との言葉には”盗む”という言葉が使われているのです。

何故なら、”人を自分のものとして自由を奪う事は、人間の尊厳を奪う罪だから”です…「盗んではならない」との戒めは「人の自由を盗んでは成らない」と言う事でもあるからです。

 昔は”奴隷制度”がありました…人類史から見れば最近まであった制度です。

先日TVで、アフリカの奴隷が売買された場所が放映されておりました…人々の無念と怨念が染み込んだ歴史の影の場所です。

そこで人が財産として売買され家畜同様に扱われたのでした…旧約聖書は、こうした事を”死刑にあたる盗みの罪”だと厳しく戒めたのです。

 しかし、当時の奴隷は過酷な労働を強いられた者ばかりではありませんでした…家庭教師や学者もいたのです。

しかし、神は、どんなに奴隷を大切にしたとしても、”人の自由を奪う事は人を盗む”事であり”死刑にあたる罪”だと言われたのです。

 哲学者のカントは「人間はお互いに手段として用いあってはならない」と言いました。人間関係には「汝とそれ」があと言われます。

”「汝」は、人間の尊厳を重んじた人間関係”ですが、”「それ」は、「人を物の様に…手段として利用する人間関係」なのです”。

 人を”それ”として、”自分の為の手段や道具の様に利用する事”は、”「人間の尊厳を忘れ、奪うと言う、人を奴隷とするのと同じ心」から生まれるもの”で…今日でも、あちこちにある事です。

世界は”人間の尊厳を忘れ奪って利用し合う、死に価する罪に満ちている”のです。

  
V、与えないと言う盗みの罪

 新約聖書では、更に”他者に与えない事も盗む事”だと言うのです。

エフェソ4:28では「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。寧ろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と言うのです。

 エフェソの教会には元泥棒がいたのでしょうか?…そうかも知れませんが、それよりも、誰の中にも”盗みの素質がある”事を知っていたのだと思います。

また、此処で大切な事は「困っている人々に分け与えるようにしなさい」という事です。

 世間では「盗んではならない。自分の食いぶちぐらいは自分で働きなさい」と言います…しかし聖書は「私共の働く目的は、他者に与える為」だというのです。

”働ける健康が与えられている事は、困窮している隣人の為でもあり”…”働いた報酬を自分の為にだけ使う事は盗む事”だと迄いうのです。

 ある大学の学長が次の様な講演をされました。

「かつての戦争で、各国がこぞって植民地を増やしました。お金を注ぎ、軍隊を送って植民地を作ったのです。そして、戦後、敗戦国は無条件で、戦勝国も次々と植民地を手放して行きました。

 欧米の国々は、戦時中、お金や軍隊だけでなく、宣教師も送っていたのです…勿論、批判もそこにはあります。

しかし、終戦後、日本が建てて参拝を強要した神社は真っ先に壊されて、教会は生き続けたのです。それも、それぞれの国の人々によってでした」…と言うものです。

 ”その違いは福音の種を蒔いたか蒔かなかったか”でした。

日本は植民地に対して、自分の国に役立つ植民地である事だけを求めて、彼等の為に何かする事を忘れて暴利を貪っていたのです。植民地を”「それ」として利用したに過ぎなかった”のです。

 一方、教会は、政治的色彩は帯びていたかも知れませんが、”宣教に於いては純粋に、人々の心の支えと救いの為”福音の種を蒔いた”のでした。

日本は、その違いに気づかず戦後も同じ事を繰り返しました…お金を投入し、人々や企業を送り込んで、貧しい国の力を利用して日本は豊かになり、エコノミック・アニマルと悪評を受けて来たのです。

 先日、新聞で「ネパールからインドへ9〜10才の子供が売春宿に売られたあげく偏見の目の為、故郷に帰れない…そんな子供達が1万人もいる」と言う記事が載っていました。心が痛みました…でも日本は、そんな貧しい国々の犠牲の上で豊かに成ったのです。

しかしながら、彼等に還元しようとする発想が近年迄無かったのです。

エフェソの手紙は私共に語ります…”私共が働きの正当な報酬を、自分の為だけに使うのか?…分け与える事が出来る事を、何故喜ばないのか?”…と。

「盗んではならない」…確かに「泥棒」をする人は一部の人かも知れません。

しかし、”「盗まない」と言う事が、「人間の尊厳を重んじ、他者を自分の為に利用しない」事、「与える為に生きる」事”であるならば、”「盗んではならない」との戒めから自由な人はどれ位いるだろうか?…と思います。と言うよりも「最も守る事が困難な戒め」なのかも知れません。

 それ故に、この「盗んではならない」との”戒め”は、日本の将来の為にも、私共の家庭の為にも、子供の教育の為にも、そしてキリストの躰なる教会の為にも、”私共1人〜が神様に問われている事と、真剣に受け留めるべき戒め”なのです。