「開かれた眼差し」
マルコ8:22−26
8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
開かれた眼差し
*マルコによる福音書は次回で丁度真ん中に入ります。
”この福音書の構造や全体の流れを見てみますと、この真ん中に分水嶺的な大きな山が置かれております。
そして、これ迄の全ての出来事がそこに集中して行くのです。それは”ペトロ(ペテロ)の信仰告白”です。
”「あなたはメシアです」(あなたは神から送られた救い主です)との信仰告白”なのです。
そして、その直前に起きた、この”盲人の癒し”の出来事は、その”山の手前の入り口”であり、ペトロの信仰告白にどんな意味があるか”光を投げかけている所”なのです。
日本の生んだ聖書学者でホ-リネス出身の渡辺善太と言う方がおられました。この方は”キリストを信じる者が必ず通る三段階がある”と言っています。
@「解った」と言う段階 A「解って解らない」と言う段階 B「解って解った」と言う段階だそうです。
主イエスに従っていた弟子達も、本当の意味では救い主としてキリストを理解してはいない…「解って解らなかった」のです。
今朝の”盲人の目が開かれる奇跡は「何に対して目が開かれていないのか?-&-目を開けて下さる主イエスについて語っている」”のです。
T、主が拒まれた眼差し
主イエス達が、ガリラヤ湖のベトサイダに着かれて休む間もなく、人々が主の前に盲人を連れて来て癒しを願いました。
注意して此の所を読みますと、”盲人自身の「癒して欲しい」との言葉は記されておりません。
ただ彼を連れて来た人々の「癒しの求め」だけが記されております。”…皆が主イエスの奇跡を見たがっていたのです。
後でも取り上げますが、主の癒しによって、人がボーと見えて来た時、男は「木の様だ」と言ったのです。
或る方は、この言葉を「人々との交わりから疎外され続けて来た”痛みのこもった言葉”である…彼にとって隣人は、暖かいものでなく、木の様に冷たく側に立っているだけの存在だった」と言いました。
人々は彼を憐れんでではなく”不思議な力を見物したいだけで、彼を主の御前に連れ出した”のでした。
しかし主イエスの奇跡は宣伝の為ではありませんでした…宣伝効果から言えば”癒し”を人目につく所でした方が効果があるに違いありません。
しかし主は、人々に背を向けて盲人を”村の外に連れ出し、2人きりになって癒しの業を始められた”のです。
”主が御自身の力を人々の前から隠された”のは、彼等の”求める眼差し”が、”主イエスを正しく理解する眼差しではなかったから”なのです。
U、主が開かれた眼差し
では主イエスは、”どの様な眼差しを求められた”のでしょうか?
それは”「救い主よ。私を憐れみ罪より救って下さい」と祈り求める眼差し”です。
主の奇跡の業は、”旧約聖書で預言されている救い主の業の成就”だったのです…”「救い主であるしるしを示す手段」に過ぎなかった”のでした。
この出来事の直前の”4千人の給食の奇跡”では、弟子達が”主を「憐れんで下さる救い主」であると悟らなかった為”に、主イエスに「まだ悟らないのか?」と溜息をつかれました…「全くもう」と呆れられたのです。
しかし、それに続くこの”盲人の癒し”の直後、弟子のペトロが「あなたはメシアです」と告白致します。
だんだん”弟子達の主イエスに対する目が開かれ始めている”のです。
しかし、そのペトロの「主よ、あなたは救い主です」との信仰告白の後で、主イエスが”十字架の受難”について語り始めますと、”先程、信仰告白したばかりのペトロが、イエスを諫め始めたので、反対に主に厳しく叱られる”のです。
”ペトロ達の理解は、まだまだ漠然としもの…「救いが、十字架でなされる事」を…「解って、解っていなかった」のです”。それは、この”盲人の男が少しずつ見える様に成って行ったのと同じ”なのです。
そこで主は、”「御自身が何ものなのか?」を示す為に立ち上がられ”ました…それが今朝の奇跡の業なのです。
盲人の手をとって村の外に導き出された主は、その”御手をもって盲人の目を覆った”のです。”目に触れる”と言う”癒しの業を2度もなされた”のでした。
主イエスは唾をつけた両手で目を触り「何か見えるか」と言われました…その時、この男の視力がだんだん回復して来たのです。男は叫びました「人が見える。木の様だが歩いているのが見える」と…。
生まれて来た赤ちゃんの目が見えない事に気づいた…この男の両親は、どんなに我が子を不憫に思い一生懸命に育てかと思います。
どんなに、その子に手を触れて育てたであろうかと思います…この男に限らず、盲目の方の触覚は研ぎ澄まされているのです。
”主イエスが御手で両眼を覆われた”のは”主の触覚による語りかけ”だったのです。
人を見て「木の様だ」と言った、”男の両眼に手を置かれた主は心をも癒された”のです。
”主イエスの心と、人の心とが出会う時、人は主イエスと言う御方を知る事が出来る”のです。
男は、”開かれた目で主イエスを見つめ”ました…”触って心に語りかけ、身だけでなく、心をも癒して下さった御方が救い主であると彼は知った”のです!
V、開かれた眼差しに見えるもの
この”盲人の癒しの特徴は2段階にわたってなされた事”です。
2度に渡る癒しによって、「最初は、ぼんやり、その後ハッキリと見える様に成って行った」と言う事です。
マタイ7:7に「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」…とございます。
”主イエスを求める者に対して主は、盲人の傍らに立たれた様に、傍らに立ち、見えない目を両手で触り覆って下さる御方”なのです。
先日、O姉が病室で「群れの中に何時も居ないと信仰が鈍ってしまいますね」と言われました。
主イエスが、此の癒された男に「村から出て家に帰りなさい」と言われたのは、「不信仰な生活から出て、共に主を見上げる群れの中に行きなさい」と言う事だったのです。
”私共が罪の為に、また、悲しみや重荷の為に、神を見上げる事が出来ない時、教会という共同体と共に(群れの人々と共に)主イエスを見上げるなら、主は私共を覆って下さる御方”なのです…私共は、”自分の為だけではなく弱さを覚えている隣人と共に主を見上げてあげる為にも礼拝を守る”のです。
”十字架の血潮で私共の罪を覆い、神を見上げる眼差しをさやかにして下さる”のです
この男の”開かれた目”には、”主イエスがハッキリ映っていた”のです…そして、その時に「何でもハッキリ見える様になった」とも書かれております。「見えて来るのです」。
”人は心に、罪や、欲望、心の傷や、極端なイデオロギー等が有りますと、物が歪んで見える”のです。
しかし、そんな中でも”主イエスを求めるならば、心の中で命の主が見え始め、主に支えられつつ救いに預かる”のです。
また、隣人や社会を見る新しい目をも獲得するのです…それによって、共に生きる人々の悲しみや重荷が見える様にもなる”のです。
主イエスに出会い心にお迎えした者は”愛の眼差しが与えられて来る”のです。
それは”主イエスの眼差し”です…”主の眼差しで物を見、感じ、生きる様になって来る”のです。
これらの事を学んで参りまして最後に思う事は、この”盲人の男の癒しの奇跡の焦点”は、”癒された男”にあるのではなく、”目を開かれる主イエスにある”と言う事です。
”2度に渡る癒しの業は、私共の頑なさや無理解に難渋されるイエス様のお姿を現している”のです。
それでも主イエスは、”罪や悲しみや、重荷によって盲目となり、救い主の憐れみを見失う者に、何度も〜手を置き声をかけ「主イエスが憐れんで下さる救い主」である事に、目を開いて下さる御方”なのです。