「遺産としての平安を受けて」
ヨハネ20:19ー23
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  遺産としての平安を受けて


 新年おめでとうございます。2002年を迎えました。昨年、世界はテロや戦争の話題で明け暮れました。教会も闇に覆われたかの様に思われた時もございましたが、主イエスが真実に闇の中の光として私共を持ち運んで下さった年でした。

 この年も、神様が伴って下さる祝福の年となります様お祈り致します。年の初めに、土居教会に与えられました御言葉であるヨハネに20:19−23に耳を傾けて、神様の約束を信じ、御言葉に立ち前進して行きたいと願っております。

 
 T、主イエスに出会える所

 この聖書の箇所は、主イエスが十字架に架けられて3日目の出来事です…弟子達は、自分達にも迫害が及ぶ事を恐れて、共に集まり戸に鍵をかけ隠れていたのです。 

 無理もありません、たった3日前に愛する主イエスが十字架で殺されたばかりなのです。

しかも、そこには自分達の裏切りも関わっていたのでした…平安などある筈もありません。 ひたすら、恐怖と不安に閉じ込められ、自己嫌悪に打ちひしがれてたのです。

そんな時、マグダラのマリヤが、我を忘れたかの様に「主イエスが甦られた」と飛び込んで来たのです。

「まさか?本当か?」それぞれの思いを持った弟子達でしたが、1つの共通点がありました「恐ろしくて確かめ等には行けはしない」と言う事でした。

 しかし彼等は、弱さの中で”主の救いに預かる…たった1つの道”の上に居たのです。それは”1つ所に集まっていた…主イエスの躰という共同体の中に居た”と言う事です。

この後、主の復活を疑っていたトマスも、共同体の中に居た時、復活の主に出会ったのです…トマスは群れから離れ1人で居た時には疑いに支配されたままだったのです。

キリスト者は、弱さや不信仰があったとしても、更に、主イエスを裏切る様な挫折の中にありましても、”主イエスの躰である共同体”である”教会”につながっている限り、”主に出会う事が出来る”のです。

  
U、遺産としての平安

 では恐れに閉じ込められていた弟子達はどの様な”主の救い”に預かったのでしょうか?…”主の遺産としての平安”と言う救いに預かったのでした。

 鍵をかけ1つ所にいた弟子達の所に、復活の主が”栄化された躰”で入って来られ「あなた方に平和があるように」と言われたのです。正に弟子達の心を見抜いた言葉です。

 この「平和」は、シャロームと言う言葉で「平安」とも訳せる言葉です…”神様との平和から生まれて来る平安です。

これは”争いがない「平和」でも、悩みが無い「平安」でもありません…「永遠から来る平安」”なのです。

 ”永遠から来る平安”…それは”ズッシリと動かない本物の平安”です。また、それはやがてペテロやヨハネ等の弟子達を驚く程に変えた”命と力を与える平安”でもあったのです。

此処で主イエスは「平安(平和)を受けよ」「遣わす」「聖霊を受けよ」と言われました。

 ”死を打ち破られ復活されたイエスは、昇天される迄の40日間、弟子達に「平安を受けよ」「遣わす」「聖霊を受けよ」と語り続けられた”のです。

正に、主イエスが「受けよ」と言われた平安(平和)は、”遺産としての平安”だったのでした。主イエスは弟子達に”「私の遺産としての平安を渡す」と言いながら、両手の釘跡と脇腹の槍跡を見せられた”のです。

弟子達は、そんな”主の生々しい傷跡を見て喜んだ”のでした。目を逸らしたい自らの裏切りと言う自己嫌悪の中にいた弟子達が”喜んだ”のです。

 この「見る」は「精神的に見る」との意味が強い言葉です…この時、弟子達は目で主を見ましたが、それ以上に”生き返られて共におられる”と言う”主の臨在を肌で感じた”のです。

 更に、この「喜び」は「浸みわたって来る喜び」の事です…復活の主を見て感じた時、”喜びと、「これからずっと共にいて下さる」安心”の中で、”不安と挫折の中に”あっても喜びが浸みわたって来た”のでした。

そして「あーイエス様は、遺産としての、この平安を与える為、十字架にお架かり下さったんだ」と悟ったのです。

  
V、平安と共に与えられる使命

 主は「平安を与える」に続いて「父が私をお遣わしになった様に、私もあなた方を遣わす」と言われたのです。

「父が私と共にあって私を遣わされた様に、”平安そのもの”である私も、あなたと共にいる…そしてあなた方を遣わす」と…。

主は”遺産としての平安”を「私の為に下さっただけでなく、使命をも与えて下さった」のです。”主の宣教を受け継ぐ”という”使命”です。

それは”重荷”が与えられる事”です…パウロはコロサイ1:24で「今や私は、あなた方の為に苦しむ事を喜びとし、キリストの体である教会の為に、キリストの苦しみの欠けた所を身をもって満たしています」と言いました。

”主のお苦しみの欠けた所を我が身をもって補う”のです。

 重荷に苦しんで教会に来たのに、更に、”教会で重荷を負わせられるとはどういう事なのでしょうか?”

その”重荷は「生き甲斐という重荷」”なのです。

”人生にとって最も悲惨な事は「誰にも必要とされない」事であり、最も重い生き甲斐は「神に必要とされる」事なのです。

勿論、”主は私共が負いきれない重荷は負わせられませんし、重荷を共に負って下さる御方”です…そして更に主は、使命を与えられるにあたって”命の力”をも与えて下さるのです。

主は「弟子達に息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』」と言われた」のです。

 これは、創世記2章6節と重なる場面です…天地創造の時「神は土で人を造られ、そこに息を吹き入れて生きる者とされた」という物語です。

弟子達は、”主イエスの命の御霊を吹き込まれ”て”新しく造られた者となった”のです…”神との間の生きたパイプラインが通じた”のでした…”どんな重荷の中でも「神からの平安に預かる者とされた」”のです。

 この新年、”土居教会は、聖霊を受けて、主に遣わされた者として歩んで行く”…これから「出会う事々、置かれる状況、隣人、全てが主を伝える為にある」。

その様な使命に生きますと、漫然と生きていれば負わなくても済んだ”「主のお苦しみ」を担う事が生まれて来る”のです。
 しかし、”そこでのみ私共は、「主の遺産としての平安」の「価値と重さを知る」”のです…

”十字架で罪赦されて聖霊を受け、主イエスの為に生きる者となるのです…その時、人は主イエスにつながり「主の遺産としての平安」を与えられる”のです。

 23節に”聖霊を受けた者に与えられる権能”について語られております…「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う”神の権威と力”です。

”罪とは「神から離れてしまった状態」の事”であり、”「赦す」という事は、悔い改めた者を「もう1度、神の下に戻す神の力(権能)」が与えられる”事なのです…”聖霊を受ける時、キリスト者は隣人を主にお連れする者とされる”のです。

 Iさんというキリスト者がおられました…彼女は若い頃、両親を亡くされ、そんな中”主イエスとの出会い”を経験されました。

そして彼女は、結婚も献げ”幼い兄弟という隣人の為に生きる決意”をされたのです。働きづめの中、カリエスを患い背中が曲がってしまいました…尊い人生です。

しかしI姉は報われませんでした…自立した弟達が、自分の為に病んだお姉さんを捨てたのです。

幸薄い方ですが、物静かで”キリストの香り”がする気品ある方でした。彼女が召されたのは、確か50代だったかと記憶しております。

召される前にお見舞いに行き一緒にお祈りした時、I姉の頬をつたっていた涙を忘れる事が出来ません…平安なお顔をつたって流れる綺麗な涙でした。

それから暫くして、彼女は素晴らしい平安の中で天に召されて行かれたのですが…あの平安な姿程の、主の下に人をお連れする宣教はないと思います。

病院関係者が最も胸打たれていたのです。そして、それは聖霊によってのみ可能なのです!

今、I姉は主の御腕に抱かれ「良くやった」と豊かな報いに預かっていると思います。  

”聖霊を受け、主イエスの遺産としての平安”を受けた者は、”主のお苦しみに足りない所を負う”と言う”使命が与えられる”のです…確かに”辛く苦しい使命”です。

しかし、それは”真の平安を知る人生”であり”生まれて来た生き甲斐をそこで知る”のです。

この新年の初めに、”私共が1つ心となり聖霊を求め…私共1人〜の重荷の上に「主の遺産としての平安」を頂き、そこで主を証する者とさせて頂きましょう。”