「神のものは神へ

マルコ12:13ー17
12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
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   神のものは神へ

                 マルコによる福音書12章13〜17、12/1

 早くも今年も今日から12月です。今朝からアドベントが始まりました。アドベント(待降節)は、”一週毎に近づく主イエスの御降誕を今年も心にお迎えする備えの時”です。

先週私共は10年ぶりに10年間、土居の地で伝道牧会され現会堂を建築して下さった荒井牧師をお招きして、召天者記念礼拝の時を持ちました。荒井師は皆さんのお元気な姿に思わず胸を熱くされてされておられました。私共も、”心待ちにしておりました再会に喜びと慰めを受けました”。

また荒井師が、昔、教会学校に通っていた子供達の家、教会から遠ざかっておられる方々を訪問して下さる姿に、如何に土居の地を愛し祈り宣教されておられたかを教えられました。

私共が荒井牧師との再会を待ち望んだ様に、アドベントもイエス様をお迎えする心備えの時なのです。

 今朝はマルコ12章13節以下から共に神の言に聴いて参ります。

今、私共は、主イエスの最後の1週間(受難週)について学んでおります。こうした学びを通して、”主イエスは、幸せになる為ではなく、十字架で死ぬ為に御降誕下さった事を深く教えて頂き、来るクリスマスが、私共の内にある、暗闇(罪や重荷や悲しみ)に、キリストという光をお迎えし、赦しと慰めに預かる時となれば幸い”です。

 主イエスの最後の1週間は論争の日々でした。

此処では17節の「神のものは神に返す」という論争がなされました。主イエスに嫉妬し対立していたファリサイ人やヘロデ派の人々が、”主を罠にかけるために手を結び、1つの質問を持ってやって来たのです。
「先生、私達は、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています…。所で、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と…。

人を陥れる為には、今でも独裁国家では密告制度があります様に、「権力者の気にくわない発言をしている」と密告すれば良いのです…それが「カイザル(ロ−マ皇帝)に税金を納めるべきかどうか」と言う質問でありました。

 当時、イスラエルはローマの支配下にありまして、ローマの貨幣を使用する事を強要されておりました…”ユダヤの律法に、「刻んだものを拝んではいけない」とあるのに、「神の子」と記された人の肖像が刻まれた硬貨を強制される事は相当な屈辱”でありました…事実、反乱を起こしたユダヤ人達は十字架で処刑されたのです。

 主イエスがファリサイ人達の問いに対して「税金をカイザルに納めるべきだ」と答えれば、「ロ−マに屈服する力無き偽りの救い主だ」と”主イエスへの失望と蔑視を生む”事は明らかでした。
 反対に「カイザルに納めるべきでない」と主が答えたなら、”主イエスをロ−マ当局に訴える絶好の口実となった”のです…絶体絶命の罠でした。

 ファリサイ人達の魂胆を見抜かれた主イエスは、税金として納めるデナリ硬貨を持って来させ、先ず裏に刻まれていた、カイザルの母(平和の女神の化身と言われていた)の肖像と、表の「皇帝ティベリウス(カイザル)・神の子」と言う文字を確認させ、その上で「カイザルの物はカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われた”のです。

頑なに、”生ける唯一の神”を重んじてきたイスラエルの民にとって、「人の像が刻まれ、神と記されている貨幣を強要される屈辱を、何故、神が放って置かれるのか?」という問いは切実な問題でした。だからこそ”ローマの支配から解放してくれる改革者を救い主として待ち望む様になった”のは無理も無い事だったかも知れません…しかし、それは過ちでした。

”人々の期待はそこからずれて行った”のでした…そして、そのズレは、”自分の願いを神に押しつける”所から生まれたのです。

 聖書が語る”救い主”は、あくまでも”人々の罪を贖い、罪により永遠の滅びに墜ちる所から救って下さる御方”なのです。

 ”全知全能で愛なる神は条件付けずに受け入れるべき御方”です…しかし、条件付きで求めたファリサイ人達は、”救い主に失望し十字架に架けた”のでした。

私共はともすれば、こうしたファリサイ人を悪役として読んで行きます…しかし、私共も、しばしばファリサイ人達と同じ過ちを犯してしまっているのではないでしょうか?

聖書を”自分に語りかける神の言として聴かず,…都合の良い事だけ聞いたり、自分の思いや、物差しを押しつけて聞く過ちです…そこに”悔い改め”は生れないのです。

信仰生活を振り返って、この「御言葉に応答して悔い改めた経験」が無い方がおられたら、おそらく「条件付きで神の言に聴く」、ファリサイ人の過ちに陥っているのです…神の言による悔い改めの無い所で、救い主との出会いは起きない”のです。
 
 では、”どうすれば神の言から、正しく神の御心を聴く事が出来る”のでしょうか?

その答えは、この御言葉が、先の「ぶどう園の譬え」の続きである所から見えて参ります。ぶどう園の譬え”には「人生を私物化する罪」が記されておりました。”人が人生を自分のものとし始めますと、神が主人でなくなり、その結果、自己顕示欲や欲望や感情に奴隷の様に支配されてしまう”という事でした…”そこに罪が生まれる”のです。

 続く、この所で主は、「神のものは神に返しなさい…あなたの人生を神のものとしなさい」と言われたのです。

先月、私共はヨブ記を通読致しました。ヨブは、正しく生きたのにも拘わらず”苦難の僕”と呼ばれる程、”人生の苦渋を舐め尽くした”人でした。

始めの内は,一見信仰的に苦難を受け入れていたヨブでしたが、やがて、”神に悲鳴をあげ抗議した”のです。

”ヨブに応えて、最後に御自身を現された神を見たヨブは…「あなたの事を耳にしてはおりました。しかし、今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け悔い改めます」”と、”自分を退けずに歩んで来た事を悔い改めた”のです…その悔い改めを通して、”ヨブは「神のもの」となり、神の御心を示され、祝福される者となった”のです。
 
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」…この主の言葉は、一見、「政治と宗教を分離しなさい」という宣言にも聞こえます。しかし、「世捨て人になりなさい」という事ではないのです。

今、北朝鮮で飢えに喘ぐ人々の為、カトリックの団体が人道的な支援をしているとの報道を聞きました。こうした行為は主の御心だと思います…何故なら、この主の御言葉は、”あなたは神のものだ。神のものとして生きなさい”という事だからです。

 では「神のもの」とは一体何でしょうか?…創世記1:27に「神は自分の像に人を創造された」とあります…”カイザルのものにはカイザルの肖像が刻まれている”様に、”神のもの”である”キリスト者は、神の姿が刻まれた者”なのです。

 それは”神と人とが愛し合う中で形造られて参ります”。

”愛は、与える痛みと、受ける幸せで1つ”なのです…”神は御子を与えて下さいました(与える痛み)…それは私共を愛してやまないから”です…”私共も「自分を神のものとして献げる」のは、”神と愛(与える愛の痛みと受ける愛)を分かち合う事”なのです。

”人は、この神と愛し合う中で、神に愛される自分の尊さに気づき神の像が造られて行く”のです。

 私共は、”神の痛みの愛を、アガペーの愛を受けた者同士”なのです…此処から、”私共は、お互いが、”神のもの”として尊びあう群れとされて行くのです。

それにより、キリストの躰なる教会は、神の御心に聴き、神の栄光を現す群れとなる”のです。