「審き主なる主」
ヨハネ8:1ー11
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 審き主なる主」
千葉聖子 ヨハネ福音書8章1〜11、11/17
ここは、「」でくくられている所です。これは、主イエス様のなさった出来事の一つではありましたが、長い間、聖書の中に入れてもいいものかどうかと論争のあった箇所なのです。 それは、姦淫の現場で捕まえられた女がこんなにも簡単に赦されていいのか、という問いが中世の教会にあったからでした。
しかし、反対に罪深い所から救われた者にとっては「本当に、自分は赦されたんだ」と確認できる慰めの箇所でもあるのです。
此処には、三種類の登場人物が出て参ります。
まず、律法学者、ファリサイ派の人々です。律法を研究し厳格に守っていた人々です。そして、姦淫の現場で捕らえられた女。罪の真っ直中にいた女でした。そして主イエス様でした。
主イエス様が、神殿の境内で民衆に教えられている所へ、律法学者、ファリサイ人らがこの女を連れてきたのです。姦淫というのは、夫・妻
以外、また結婚前の男女が性的な罪を犯す、と言う事です。それは律法では「石で打ち殺せ」とあり、姦淫罪で死刑に値するものでした。
申命記22章23〜24節 には「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない」とあります。ですから、律法学者、ファリサイ人は、この女を主イエス様の元に引き連れて来たのです。
しかし、この時の律法学者、ファリサイ人は「この女の処遇をどうするか」を主イエス様に聞きたかったのではありませんでした。それは「イエスを試して訴える口実を得る為」でした。律法学者、ファリサイ人は、この女を真ん中に立たせて人々の奇異の目にさらしたのでした。そして、イエスに問うたのです「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか…」
もし主イエス様が「女を石で打ってはいけない」と言われたなら、モーセの律法に反する事で告発する事が出来る。もし「石で打ちなさい」と言われたなら、今まで罪人に対する神の憐れみを、説いて来られた教えと矛盾する。
また、当時ローマの支配下にあったイスラエルには死刑の執行権はありませんでした。主イエス様がここで「石打ちの刑」という死刑を求刑されたなら、ローマ帝国の権威に対向する事になり、律法学者、ファリサイ人はイエスをローマ帝国に突き出す事が出来るのです。彼等の魂胆はここにあった様です。
しかし、主イエス様はかがみ込み、指で地面に何か書き始められたのでした。福音書中、主イエス様のこの様な姿はここにしかありません。みんなが立っている中、まるで子供がする様にかがみ込んで、地面に何か書き始められた…何故か?一つには、女に対する人々の視線を、御自分の方に向けさせたという事です。
また、主イエス様を何とか訴えたい、といきり立ち「自分は神様から審かれるものは何もない」と思っている律法学者、ファリサイ人に対して背を向けてかがみ込んだのではないか、と思われるのです。
ここで、主イエス様が何を書かれたかはわかりません。しかしそのお姿から、女に対してというより、律法学者、ファリサイ人に対して主イエス様の憂える思いが伝わって来る様に感じます。しかし律法学者、ファリサイ人は、主イエス様の思いとは裏腹にしつこく問い続けたのです。
主イエス様はその中でようやく立ち上がって言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」そしてまた、かがみ込み指で地面に何か書き始められたのでした。
主イエス様の言葉だけが、両刃の剣の様に律法学者、ファリサイ人の心に突きつけられたのです。これを聞いた人は年長者から始めて一人一人立ち去ったのです。人生経験が豊かな人程、神様の前に罪が示されたのかも知れません。
そこには、主イエス様と女だけが残されました。ここで初めて、主イエス様は身を起こして女の方を向いて「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われたのです。
この女も、イエス様が身を屈めている間に逃げ去る事も出来ました。しかし、主イエス様の前から立ち去れなかった…「この御方こそ神様から遣わされた方、この御方の前に罪のただ中にいた自分は、審かれなくてはいけない」そういう思いを、この女は感じていたのだと思うのです。「主よ誰もいません。私を審ばく御方はあなたです」と主イエス様の前に、この女は立ちました。そして、主イエス様の「私もあなたを罪に定めない」と罪の赦しの宣言を、この女は受けたのです。
主イエス様は、この女の罪をいい加減あしらった訳ではありませんでした。
やがて主イエス様御自身がこの女の罪を負って、十字架に架かられたのです。主イエス様はこの時、やがて来るこの十字架を思いつつ、この女の罪を赦されたのでした。
そして「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、この女に新たな出発の機会を与えたのです。
この女はやがて、十字架に架かられた主イエス様を、群衆の一人として見ていたかも知れません。或いは、うわさに聞いたかも知れません。その時、私の為の十字架だった…という事を示され、この女の涙は止まらなかったのではないか…と思うのです。
本当に罪深い所から救われた者にとっては、この箇所は無くてはならない慰めの箇所です。
しかし、ともすると私達はここに出てきます、律法学者、ファリサイ人の様に、人を裁き自分は正しいと思ってしまう弱さがある、という事も知らなくてはいけないのです。
そういう時、私達はみんな、主イエス様が言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という御言葉の前に引き出され問われるのです。
律法学者、ファリサイ人は、そこから立ち去りました。主イエス様の「赦しの宣言」を受ける事が出来なかったのです。そして8章59節を見ますと「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」とあります様に、主イエス様を邪魔者扱いして殺そうとしたのです。
しかし、主イエス様の前から立ち去らなかった女は、主イエス様から「罪の赦しの宣言」を頂いたのです。
私達も礼拝に於いて、悔い改めを持って十字架の主イエス様の前に立ち「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」との御言葉を聴いて行きたいと思います。
そして、罪赦された者として、新たな出発をここからさせて頂きたいと思います。
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