「人と神の権威の対決

マルコ11:27ー33
11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


   人と神の権威の対決
」    2002、11/3
 今朝は、マルコ11:27-33の箇所から、共に神の言を聴き、主イエスに礼拝を献げて参ります。今朝お読みした所は、十字架を3日後に控えた時の出来事であります。

 ざっと読みますと、良く分からずに読み過ごしてしまう様な、「祭司長、律法学者、長老達とイエスの論争」の箇所です。

十字架を目前に、大展開して行く物語の中にあって、一見退屈にさえ思える、この論争が、実は、”その後の出来事の意味を鮮やかにして行く”のです。それ故、この主イエスと、祭司長、律法学者、長老達との間にかわされた論争の意味を注意深く、心を込めて聴いて参りたいと思います。

 この”祭司長、律法学者、長老達”の事は、既に18節に出て来ております…「祭司長達や律法学者達はこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」と言う文です…この文から、彼等には、”主イエスに対する殺意”を見る事が出来ます。

「どの様にイエスを捉え殺そうか?」と、この論争は、”罠を張って主の言葉の隙を狙った息詰まるもの”だったのです。

別な言い方をするなら、この論争によって”主イエスを罪人に陥れる裁きが始まった”と言えるのです…しかし、反対に、そこで”主イエスが人々の罪を明らかにされた”のでした。

「何の権利で、この様な事をしているのか?」…と言うテーマによる論争によって、”人の裁き(裁判)と神の審き(審判)”とが、ぶつかっていたのです。それによって、”主イエスが、神の権威によって、人の裁きを審いて行く”のです。

  「何の権利で?」の”権利は、権威・権力の事”であります…「祭司長、律法学者、長老達」は、当時、”生活の中心の場だった宗教の専門家であり、また、政治家でもあった”のです。

 政治家の権力は、私共の知る所です…しかも彼等は、当時、”更に大きな権威を持つ宗教家だった”のです…”私共の想像を超えた権威・権力を持っていた”のです…そして、その”権威・権力の象徴こそが神殿”でありました。

”権威”を与えられると言う事は、”権利を得る事”でもございます…赦されなかった事が出来る様になるのです…彼等は、神殿を任され、神殿を自由に歩き、神殿を支配したのでした…しかし、同時に、”責任”も与えられていたのです。

 私事ですが…仙台在任中、コンビニの裏に少年達を見かけた事がありました。何かコソコソしていたので何気なく覗いて見た所、丁度、タバコの吸い殻を積み上げた段ボールの上に投げ捨てた所だったのです…「火事になる」と思った私は咄嗟に注意していました。

その時、私の脳裏に、教師である義兄の「今は小学生でも、荒れている子はナイフをもっている子もいる」と言っていた事をふっと思い出し、「しまった」と思いました。その時、私は、丁度刑事ドラマを見たばかりで、しかも、トレンチコートを着ていたので咄嗟に「警察の者だけど…」と言っていたのです。

若かったとはいえ我ながら呆れます。少年達の顔は真っ青になり硬直しておりました。その子達をコンビニ店に連れて行き「段ボールに火が着く所だったから注意して下さいね」と言って少年達に「もうしちゃいけないよ」と言って釈放?…その時、何か事件があったらしく、パトカーが目の前を走り回っていたのです。少年達の顔は再び真っ青に…。

その時、私は「牧師なのに嘘をついてしまった」と思う自責の念と、同時に「警察の権威」を改めて思いました。

 ”権威には力が伴うゆえに、正しく用いる責任が伴い”ます…”キリスト者にも「神の子」としての権威と共に、礼拝を重んずる責任が伴い”ます…牧師や役員も、神から「教会に於ける権威と責任」が与えられております…その”権威と責任は決して軽いものではない”のです。

”宗教家達は、権威と権力を享受しながら、神殿礼拝の命と純粋さを守る責任を果たしていなかった”のでした。

 前日、その神殿を主イエスが歩き巡られて、「宮きよめ」をされたのでした。

案の定、”面子を潰された権力者達”は、それが「カチン」と来たのです…彼等の目にはイエスの行動が、「自分達の領域を侵される事」と映り、「自分達の権威が侵された」とも思えたのでしょう…「彼等にとって、主イエスは決定的な邪魔者となったのです」。

 実は、この”邪魔”という思いが、”入信においては、非常に大切な問題”なのです…”自分が支配してきた心に、神が権威と権力をもって侵入して来られるから”です…”自分の世界に侵入して来られる主イエスを受け入れるのが信仰”であり…反対の”「祭司長、律法学者、長老達」の様に、主イエスに「出て行って欲しい」と願う思いが、”主イエスへの殺意(存在を否定する事)となった”のです。

”主イエスの存在が、自分の損得に拘わる時…主を受け入れるか、邪魔者とするかで、主を信ずる者と、否定する者とに分かれて行く”のです…この”主イエスの存在に対して「困った」と悩む所で、心が揺り動かされ信仰が生まれる”のです。”弟子達でさえ、主イエスに「困って信じた」から”です。

 弟子達は、復活を、主御自身の口から何度も予告されていたに拘わらず、主が復活された時、”躍り上がって喜んだのではなかったのです…余りに現実離れした出来事の前に、戸惑い疑った”のでした。

 ”戸惑い困る”…正に、”自分の心が根底から揺り動かされる事です…しかし、そこでイエスを、主として心に迎える信仰が生まれる”のです…主の内に”神の権威”を見た権力者達は、”権力”という”自分の存在の基盤を失う恐れの中”、戸惑い、困り果て、主イエスに、「何の権威でそれらの事をするのか?…誰が、そんな権威をお前に与えたのか?」と問わずにおれなかったのです。

 それに対して、主は問い返したのです…「バプテスマのヨハネの洗礼は天からのものか?」と。 此処で「洗礼を施したバプテスマのヨハネは天からのものか?」とは聞いていない事に御注意下さい。「洗礼は神からのものであるか?」と言われたのです。

 バプテスマのヨハネは、”キリストを救い主と指し示す為、神に遣わされた預言者”でした…彼は、400年もの間、”神が沈黙されていた時代に、人の権威と権力により、腐敗した神殿から遠く離れた荒野に流れるヨルダン川で、”神の権威によって洗礼を授け、信仰の命を回復し続けた…神にある力に満ちた預言者だった”のです。主イエスをして「最も偉大な預言者」と言わしめた人物でした。

 ”彼も天的な存在”でした…しかし主は、敢えてヨハネではなく、「洗礼は神からのものか?」と問われたのです…洗礼は「悔い改めの徴であり、神の民とされた証の儀式」であります…バプテスマのヨハネは、「心から罪を悔い改めて、赦され、神の民とされ、心を神に向け、神に従う生活を生む…洗礼を回復した」のです。

 主イエスは「生きた信仰を回復させている、この洗礼の権威は、神からのものでないのか?」と問われたのでした…権力者達は、「分からない」と答えました。

「信じていた」なら…”彼等は、人の権威にあぐらをかいて、神殿の礼拝を腐敗させて来た事を悔い改め、礼拝を改革すべきでした…反対に、”「信じていない」と答えたなら、”バプテスマのヨハネが回復した、洗礼によって、信仰の命に預かった民衆からの支持を失ってしまう”からでした。

  権力者達にも、”神の権威があった”のです…それに対する”責任もあった”のでした…”主イエスの「宮きよめ」のお姿を通して、神殿の礼拝の命と純潔を守る責任を果たしていなかった”事を認め悔い改めるのが…”責任を果たす事”だったのです。

 しかし、自分達の権力の座が奪われる危機感しか見ようとしないない宗教家達に、主は、とうとう堪忍袋の緒を切らし…「神から与えられている権威に対する責任を果たそうとしない、あなた方に、何の権威でこのような事をするのか、私も言うまい」と…”神の権威で審かれた”のでした。

 しかし、”数日後、主イエスは彼等の手で十字架に架けられ殺される”のです…一見、”神の権威が、人の権威に敗北したように見えます”…しかし、そこで、主イエスは、”神の権威”によって、”死から甦らされる”のです…神の権威による逆転勝利”でした。

”私共も皆、神より権威が与えられているのです…神の子供とされた権威、父親としての権威、母親としての権威、仕事のプロフェッショナルとしての権威、牧師としての権威、役員としての権威”です…これらは”誇りを持って大切にしなければなりません”。

 同時に、困難でも、”責任をも忘れてならない”のです…そこに”主のお躰なる教会がつくられ、キリスト者の歩みが生まれ、主にある家庭、仕事で主の栄光を現す者となる事が出来る”からです。