「造られるキリストの形

出エジプト39章 39:1,v20−21、v27−32,v42−43
39:1 彼らは主がモーセに命じられたとおり、青、紫、緋色の毛糸を使って、聖所で仕えるために織った衣服を作った。すなわち、アロンの祭服を作った。

39:20 更に、別の二個の金環を作り、それを二本のエフォドの肩ひもの下、すなわち、エフォドの付け帯のすぐ上、そのつなぎ目のあたりの外側に取り付けた。
39:21 胸当ては、主がモーセに命じられたとおり、その環とエフォドの環を青いねじりひもで結び、それがエフォドの付け帯の上に来るようにし、胸当てがエフォドからはずれないようにした。

39:27 また、アロンとその子らのために、縁取りをした亜麻の長い服、
39:28 亜麻のターバン、亜麻の美しいターバン、亜麻のより糸で織ったズボン、
39:29 亜麻のより糸で織った飾り帯、すなわち青、紫、緋色の毛糸を使ったつづれ織を作った。主がモーセに命じられたとおりであった。
39:30 また、純金の花模様の聖なる額当てを作り、その上に印章に彫るように「主の聖なる者」と彫った。
39:31 この額当てに青いねじりひもを付け、ターバンに当てて結んだ。主がモーセに命じられたとおりであった。
39:32 幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った。

39:42 イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。
39:43 モーセがそのすべての仕事を見たところ、彼らは主が命じられたとおり、そのとおり行っていたので、モーセは彼らを祝福した。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


   造られるキリストの形
」 
出エジプト39章、39:1,v20−21、v27−32,v42−43、2002、10/6

 
 今朝は、出エジプト39章の所から、共に神の言葉に聴きつつ礼拝を献げて参ります。出エジプト記は、25章から39章まで、実に、15章に渡って”主が命じられたように、注意深く幕屋を建築した”事が記されております…読む者が飽きてしまう程の長い箇所であります。

しかし、このように丹念に記されている所に、神のメッセージを伺い知る事が出来るのです。

 39章はその完成の記事でありますが、その中に「主がモーセに命じられた通りである」という言葉が十回も出て参ります。釘一本に至る迄、彼らは主の示された通りに建築したのでした…”人の側の都合や思いが完全に退けられ、ただ主が命じられた通りに全てを造った”事に、彼等が如何に、”み言葉に厳格に従ったか”が描かれております。

出エジプトから、およそ1500年後、”キリストの十字架によってキリスト教会が誕生”しました…その初代教会の最初の殉教者ステファノが裁判に引き出された時、彼はイスラエルの歴史を語り、その中で「私達の先祖には、荒野に証の幕屋があった。それは、モーセに語った方(神)のご命令通りに造ったものである」と言ったのです。

 この時、エルサレムには46年の歳月を費やして造られた世界に誇る神殿がありました…それ故、このステファノの言葉は、暗に、「神殿は”荘厳さが問題ではない”…ただ、”主の言葉に聴き従い、主の臨在に預かっているか?」…”神殿は命を失っている”と言う批判だった”のです…”み言葉に聴き従う信仰生活には、主が生きて働いて下さるから”です。

 使徒言行録7:52-60を見ると、ステファノが、何処まで主に従ったかが記されております。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言ったのです…しかし、人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた…人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」…とございます。

神々しい姿です…”殉教に際して、ステファノの眼差しに主イエスは姿を現して下さったのでした。しかも、神の右の座で立ち上がって両手を広げて彼を天に迎え”て下さったのです。ステファノは、イエス様のように、自分を殺す者達を赦しつつ天に召されたのでした…”主に従うステファノを、圧倒的な主の臨在が支えた”のでした。

 しかし、その歩みは厳しいものです…出エジプト記に戻ります。

38章8節に「洗盤と、その台を青銅で造った。即ち、会見の幕屋の入口で務をなす女たちの鏡をもって造った」と記されておりますが、鏡は、女性にとって大切なものであると言われます。その大切なものを献げなければ、洗盤を造る事が出来なかったのです…どんな小さな事柄においても、”み言葉に従う為には献身が問われる”のです。

 この様にして建てられた幕屋は「証の幕屋」と記されました…”主の臨在と祝福が、そこに充ち満ちたから”でした… ”主が共にいて下さる時に証が生まれる”のです。”信仰者の喜びの源泉は、人知を越えた生きた神のみ業を見る事”です…逆に言いますと、それが無い信仰生活程つまらないものはございません…”御言葉に従うのは、この為”なのです。

 しかし、誰が一体、御言葉に従いきる厳しさに耐える事が出来るでしょうか?…主イエスはルカ18:27で「人間には出来ない事も、神には出来る」と言われました…私共は「御霊で始めた事を、肉(自分の力)で仕上げようとしてはならない」のです…”御霊による”のです。

 ”聖霊が与えられる”事こそ、「新しい命が与えられ、キリストが形造られて行く」事なのです。
パウロは、ガラテヤ4:19で「…あなた方の内にキリストの形ができる迄は、私は、またもや、あなた方の為に産みの苦しみをする」と述べました…”聖霊は私共を「キリストに似る」者とするというのではなく…”キリストを形造る”と言う”のです。

 ”肉の力(自分の頑張り)で、御言葉に従う”のは、「律法にあるから…しない」と縛る事です…疲れますし続きません。しかし、”「キリストの形が造られて行く」事は、アガペーの愛で、「…してあげたい。…をして傷つけたくない。悲しませたくない」という、自由で積極的な思いの中、罪から守られる”のです。

 ”キリストを信じる”という事は、「私は、キリストが私の罪を贖う為に十字架にお架かり下さった事が分かった。主に愛されている事が分かった。良かった」で終わらないのです…”キリストが形造られて行く”事に至るのです…その為にこそ、”私共は、心を開きキリストと交わる”のです…”主との交わりがキリストの形を造るから”です…これは”私共の責任”なのです。

ハイデルベルク信仰問答という重要な教理集がございます。私共が何を信じているのか?…をまとめた本で、受洗準備などに使われます。

 その本の1番始めの問いは「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは何ですか?」と言うものです。答えを要約します…答え「私が身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものでなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものである事です…主は尊き御血潮を持って一切の罪を贖って下さり…それによって、主は聖霊によって、私に永遠の命を保証し、私が心から喜んで…主の為に生きるようにして下さるのであります」というものです。

罪赦された者にとって、キリストのものとなる(キリストが形造られる)事が何ものにも代え難い事となるのです…そして、心から喜んで主の為に生きる様になる…この事が、信仰の一歩なのです。

 パウロは、”自分の内にキリストが形造られる”と言う、この”地上に於ける最高の恵み”を経験したのです。そして、”全てのキリスト者の内に「キリストが形造られて行く」為ならば、「産みの苦しみをしても構わない」と言った”のです。

”産みの苦しみ”というのは男子には分かりません…男性の4割は陣痛に耐えられないとお聞きした事がありました。パウロは、「全てのキリスト者が、心を開いて主と交わり、この恵みを経験して欲しい…その為の牧会なら、どんなに苦しんでも構わない」と言ったのです。

 パウロは、またガラテヤ4:6で「このように、あなた方は子であるのだから、神は私達の心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」…聖霊によって、天の父なる神を、自然と「アバ、父よ」と呼ぶ事が出来る様になると言いました。

この「アバ」というのは、アラム語で「お父ちゃん」という、親子ならではの呼び名でした…”ユダヤ教徒は、畏れ多くて神を「アバ」とは呼びません”でした…この呼び方で父なる神をお呼びしたのは、”主イエスが初めてなのです…神の子だったから”です。

キリストが、私共の内に生きて下さる時、神への敷居の高さがなくなります…そして、”神様が「アバ父=お父ちゃん」になるのです。
何時も安心して「アバ父」と呼び、飛び込んで行ける御方となる”のです。

この「神との生きた交わりが、私共の内に、キリストを造る命の力となる」のです…それが、”御霊の力によって変えられて行く”事であり、”人の頑張りではない”のです。

 かつて、どんな霊的経験をしても、どんなに「神と深く交わっています」と言っても、その人の内に、”今、キリストが形造られ続けていなかったら、その人の内に信仰の命はない”のです。

 キリストは「私が去って行く事は、あなた方の益になるのだ」とおっしゃいました…それは、”私共1人〜に聖霊が与えられる為”でした…”十字架の罪の贖いを信ずる、全ての人の心に聖霊が与えられ、キリストが形造られて行く為”なのでした。

 イスラエルの人々が、”全て主がモーセに命じられたように”幕屋を建て上げた時、”主の臨在と祝福とが充ち満ちた臨在の幕屋が完成した”のでした…証の生活が始まったのです。

”今、主イエスは、聖霊によって私共1人〜の心に充ち満ち、主との交わりによって、キリストを形造り、主の臨在の証者としよう”とされているのです。今朝、共に、この恵みへと召されている事を感謝し、日々、自分と教会の内に、キリストの形が造られるよう祈りましょう。