「少しも疑わずに

マルコ11:20ー25
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


   少しも疑わずに
」 マルコ11:12ー25、2002,10/13

 この朝、私共も与えられている御言葉はマルコによる福音書の11章12節以下の所です。その中の23節に「少しも疑わず」と言う、簡潔で鋭く突き刺さる言葉がございます。

 この御言葉は、口語訳聖書では。「心に疑わず」と訳されておりました…口語訳は、”原語を原文に忠実に訳する手法(文化の違う国には意味が伝わりづらいきらいがある)”を用いておりまして、「心に疑わず」と訳したのです。

一方、新共同訳聖書は、「少しも疑わず」と訳しております…新共同訳は、”意味を明らかにしながら訳すという手法”をとっております(文脈からの翻訳者の意味理解が大きな影響を与えるきらいがある)…”ギリシャ語は、1つの言葉が幾つかの意味を併せ持つから”です…「It's a piece of cake.」という英語の文章を、文字通り「一切れのケーキ」と訳する(口語訳的)か、慣用句として「朝飯前だよ」と訳するか(新共同訳的)の違いと言えば分かりやすいでしょうか?

この様な2つの訳を併せ読みますと、この御言葉は「少しも疑わずに、心を1つにして信じる」と言う意味だと分かって参ります。

 「少しも疑わない」…これは大変困難な事です。しかも、主イエスは「誰でも、この山に向かい『立ち上がって海に飛び込め』と少しも疑わずに言ったら、その通りになる」と言われたのです。

この”山を動かす信仰”については、また後で触れますが、この時の主イエスの言葉は、”祈りの本質”を語る言葉であったのです…私共は、”祈りの言葉とは裏腹に、心の中で疑っている事はないでしょうか?”…主イエスは、此処でその事について語られたのでした。

「疑う」と訳されている言葉は、本来、「物を判別する」という意味がございます。黒と白、善と悪とを分ける事であります…「祈りの中で疑う」という事は、…”神の言により頼んで祈り”ながら、一方の心では、”今までの人生経験から神の言を疑っている”のです。

 それ故に主イエスは、此処で「祈りは、疑いを捨てる戦いなのだ」と励まされ、「あなた方が、本当に命ある信仰をもって語るなら山だって動いてしまう」と言われたのでした。

  ”いちじくの木が枯れた”のは、一つの”徴”でありました…当時、工ルサレム神殿の礼拝は命を失い枯れておりました。”私共の祈りも命を失っている事がある”のです。前にも申しましたが、葉の茂る季節に、大きな実に成長する実の種が無い、いちじくの木は、”既に命が尽きていた”のです…主イエスは、”いちじくの木”を通して、”疑いながら祈る神の民の命は枯れる”と語られたのでした。

 工ルサレムへの巡礼者達も,祭司達も、神の御前で、”午後の昼寝の様にまどろんでいた”のです。”信仰の命を失う事への、危機感が無かった”のです。

第二次大戦中、ナチスドイツを批判し戦った、20世紀を代表する神学者バルトは、現代の社会を、以下の様に批判しました「今日の社会は、かつてのヒトラーの様な、困った力が支配している様な事は無い。しかし、問題はもっと深刻である…繁栄によって、午後の昼寝の様に、祈りの命を失っている事に気づかない。いちじくの木の様に枯れてしまう」と言ったのです…真摯に受け止めるべき言葉です。

 そこで、主イエスは22節で「神を信じなさい」と言われたのでした…実は、これは珍しい表現なのです。普通は「信じなさい」と言うだけなのです。神を信じるのは分かり切った事だったからかも知れません。

厳密に、この「神を信じなさい」を訳しますと「持ちなさい。神の信仰を」という事なのです…「私の信仰は貧しくて…」という言葉をしばしば耳にします。しかし、聖書は、「信仰は神のもの」と言うのです…私共は、「神様の信仰を頂く」のです。

 「神の信仰は、少しも疑わない信仰」なのです…しかし時として、私共は「祈りながら疑っている事があるかも知れません…いえ、現実の厳しさの前に、疑う事に開き直っている事さえあるかも知れないのです」…主イエスは、「疑いながらの祈りは、心1つの祈りでない…信じているつもりに過ぎない、まるで、やがて枯れてしまう、いちじくの木だ」と警告されたのでした。

 主イエスは24節では「だから言っておく。祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」とも言われたのです…「言っておく」…これは”遺言”です。

 主イエスは、「祈りは、既に与えられたと信じなさい」と遺言されたのです。しかし、良く分からない表現です…”まだ与えられていないから”祈っているのではないでしょうか?

 しかし、”教会は既に与えられたと信じて祈り続けて参りました”…何故なら、”不安しか無い所では祈れない”からです…”「今の私は、主イエスの眼差しの前で祈っている。主に祈りは聴いて頂いている」信仰から祈りは生まれる”のです…そして、”信じて祈る者は、後に人知を越えた、主の答えを知る”事を教会は知っているからです。

 更に、もう1つ大切な言葉がございます…「山」です。23節に「はっきり言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる」 でございます。しかし、キリスト者が祈って、石鎚山や赤石山が動いたと言う話をお聞きした事はございません…これは、”ものの譬え”なのです。

 主イエスが、此処で言われた「山」は、「罪の山」の事でありました…主イエスは、人の罪を見つめ続けて来ました。今、自分を陥れ殺そうとしている人々の罪を、自分を裏切り捨てようとしている、”人の罪を見ていた”のでした。それは「動かしがたい人間の罪という山でした」。

”主イエスは、その山を取り除こうと、十字架への献身の祈りをしていた”のでした。”「神よ、私の十字架によって、人間の罪の山を動かして下さい」と激しい祈りを積み重ねていたのです。そして、それが、十字架の前夜、血の汗を流して祈られた”ゲツセマネの祈り”へと至る”のです。

 ”私共の前にも、この山は立ちはだかっている”のです…"祈りの中で「神は何処にいる?、その御言葉は、あなたの思い込みではないのか?」という、サタンの声が強く大きく成って来て、自分の祈りの声は小さく成って来る”のです。

 その時、私共は忘れてはなりません…「小さな確信と共に与えられた御言葉を通して、主は一緒に山を取り除こうとされておられる」事を…。私共は、"不安の中で祈る時、御言葉に拠りすがりながら、「この山はもう動いている」と信じる戦いをするのです…私の為に、十字架で血潮を流して下さった主イエスの真実を信じ、「神の信仰を頂く」”のです。

 では、どうしたら、”疑う弱さを持つ者が、山を動かす様な祈りをする事が出来るのでしょうか?”…その答えが25節の「また、立って祈る時、誰かに対して何か恨みに思う事があれば赦してあげなさい。そうすれば、あなた方の天の父も、あなた方の過ちを赦してくださる」なのです。

 当時の人々は、皆、立って祈ったようです…今も、ドイツやスイスの教会では、座席に着席する前に、そこで立ったまま、暫く手を組んで祈るのだそうです。
 何を祈るのでしょうか?…”恨んでいる人の事を思い出す”のだそうです。そして”「人を赦す事が出来る者として下さい」と祈り礼拝に臨む”とお聞きしました。

 人は心の傷が癒される迄は、なかなか赦す事は出来ません。でも、だからと言って、”人を憎んだままでは礼拝に預かる事は出来ない”のです…ゆえに私共も、礼拝式の中で”主の祈り”を祈るのです…「私が、人の罪を赦した様に、私の罪をも赦して下さい」と…。

 でも、”「人を赦す祈り」は、直ぐに出て来るものではありません。”悩んで〜苦しんで、苦しんだ末、”主イエスに与えられる祈り”なのです…型だけ真似て祈っても、赦す心が与えられるものではないのです…”赦せない自分を通し、自分の中の動かない罪の山に気づく”のです。

礼拝毎に、”神の赦しの恵みによって、人を赦せない者が赦され、礼拝に招いて頂いている恵みに気づく”のです。この恵みの中で私共は変えられて行くのです。

 私共が、”少しも疑わずに、一つ心で祈る者とされる”のは、正に、”その地点”なのです…”自分の罪の山に気づき、主の赦しの中に飛び込む所”なのです…”罪が赦される所”において、私共は”主イエスが共にある事を知り、疑いから解き放たれて祈る者とされる”のです…そして、”生きて働いて下さる主を体験して行ける”のです。