十戒:第一の戒め「命の道しるべ」    出エジプト20:1〜3
出エジプト
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
   十戒:第一の戒め「命の道しるべ」
*シナイ山に於いて、いよいよモ−セは神に十戒を与えられます。イスラエルの民に”神の民としての自己確立”を与えた十戒は、神が民に、直接与えられた唯一の律法であります。
 これらの”十の戒め”は、神様御自身によって、2枚の石の板に書き記されましたが、モ−セが、その板を砕いた為、再び神によって書き記されます。
 さて、この”十戒”は、”使徒信条”や”主の祈り”と並んで、キリスト教会の三要文として重んじられて来たものです。
「少年よ、大志を抱け(キリストにあって)」の言葉で有名なクラーク博士は、札幌農業学校(後の北海道大学)の若者達に宗教教育する為「イエスを信ずる者の盟約」という文書に誓約する様に指導したそうですが、これは”十戒”を厳守する約束であったと言われます。
 しかし、多くの教会に於いて、”十戒”は、使徒信条や主の祈りの様には定着しておらず、また、日常生活に密着した”道しるべ”としての、自覚も薄いのではないかと思います。その様に”十戒”が馴染まない1つの原因として”十戒に対する理解の不十分さ・誤解”があるのでは?…と思うのです。今朝は”第一の戒め”から”十戒”に込められた”神の心”を共に学んで参ります。

  T、戒めへの誤解

*社会に規律が無いと、社会生活が成り立たない事は知っています。成人式に暴れた若者達が、社会の批判を受け社会的制裁を受けた事は仕方がないと思います。
 しかし”戒め”という言葉にある”窮屈・束縛というイメージ”から生まれる”戒め”への感情的な拒絶感が私共の心にあるのです。
 私が四国に参りまして驚いた事の1つに、中・高等学校の校則が厳しい事がございます。「何故、そこ迄?」と感じ、子供達が可哀想に感じる事しばしばです。そうした”締め付け”の体験が若者の内に”戒めへの拒絶反応”を育てているのではないか?…とも思えます。
 現代の人々が教会に於いて、「〜しなければならない」という十戒を唱える時、やはり”恵みや愛”と言っても、信仰の世界も所詮「〜でなければならない」という律法の世界なのかと感じ、うんざりしてしまうのではないかと思うのです。
 しかし、その様なイメージで”十戒”を捉える事は、”十戒への誤解”なのです。 私共は、信仰する者の心に”神への愛と、自由と喜びが生まれる”事を知っています。それが、”主の証人となる力の源”なのです。
 しかし、ともすれば、信仰生活が「〜でなければならない」という窮屈な律法主義に陥ってしまいます。そうした”窮屈な信仰”からは”タテマエ”が生まれて参ります。罪に縛られている自分と、律法とのギャップで苦しみながら、それを見せまいとして教会生活を送る中で、今日、多くのキリスト者が、この”本音と建て前”の信仰生活を送っているのです。
 ”神が与えて下さった十戒”は、私共を縛り”自由と喜び”を奪うものではないのです。十戒は、私共が”自由であると宣言”し、自由人として生きつつも”命に預かり続ける道しるべ”なのです。

  
U、命の道しるべとしての十戒

 そこで、”命の道しるべとしての十戒”の”第一の戒め”を学んで参ります。第一の戒めは、
口語訳では20:3「あなたは私の他に、なにものをも神としてはならない」となっておりますが、
新共同訳では 「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」となります。
 口語訳からは「真の神である私以外を拝むな!→〜してはならない」とのニュアンスが伝わって参ります。しかし新共同訳ですと「あなたが、私をおいて他の神を、神とする事は考えられない…あなたは、私を神とする筈である」というニュアンスと成っております。 
 この新共同訳の文の方が”原文のニュアンスが良く出ている”とある注解書に書いてありました。
 また、この文が書かれている”ヘブライ語”では、「他に神があってはならない」との言葉は”他の神々の中から1つを選びなさい”との意味ではなく「私以外に、あなたの真の神は無い。あなたが他の神を神とする事は考えられない…さあ、神を選んでみなさい。あなたは、私を神とする筈である」との意味になるのだそうです。これは「〜でなければならない」と言うよりも「どれにする?…それしかないよね!」とのニュアンスなのです。つまり、この「あってはならない」は”自由意志に委ねた言葉”とも言えるのです。
 それゆえ神は、この第一の戒めを語られる前に、2節で「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われたのでした。これは、神の自己紹介の言葉です。神様が”生ける神として、奴隷の地から、10の災いや、海を二つに分けて、雲の柱、火の柱で、救い続けて来た”と述べ…「あなたは、私を神とする以外にないではないか」と語られたのです。

 この言葉は、親の愛に充足している子供が、”両親に喜んで貰おうと、強いられてでなく、自発的に、愛と喜びをもって、良い行動をする事に通じ”ます…今朝の朝日新聞の読者のページに次の様な投稿がありました「中1の時、父の事業が失敗し、友達に行き先も話さず狭いアパートに引っ越しをした。転校先に登校初日、弁当箱を開けると、ご飯に梅干し、おかずには何時の間に造ったのか、中身がネギだけの薄いオムレツが入っていた。子供ながら、家にはお米も僅かしかない事を知っていたので、必死に造ってくれた母の気持ちを思うと涙が溢れた。周りに気づかれない様に、そのオムレツを頬張った。涙がこぼれ落ちしょっぱい味がした〜」とありました。この方は、その後、親を愛して生きて来られたと思います。”戒め”は、”愛を受けた子供の様に、強いられてではなく、自由の中で、愛による応答として守る”のです…神は、それを期待されているのです。 

 主は「私は,出エジプトの救いの御業をなした者である」との自己紹介の前に、「私は主、あなたの神」とも言われました。この”主”は”縛り付ける御主人様”という意味ではありません。聖書が”私は主である”との表現をする時は、「私は、あなたを選んだ救い主、あなたの慰め主、あなたを導く者である」…と”主なる神が、慰めと救いを告げる者である…と御自身を現される時”なのです。
 そして、この出エジプトにおける”神の救い”という御業は、神が一人子をお送り下さった”御子イエス・キリストにおいて、更に深く、大きな恵みとして現された”のです。
 ”神と御子イエスは、十字架の愛と痛みによって、私共を罪の奴隷の状態から、死の恐れの状態から救い出して下さった”のです。この”神の生きた救いの御業”によって、私共は”しっかり神と1つに結ばれた”のです。

 こうして見て参りますと、この”第一の戒め”の「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」との言葉は「私はエジプトから、あなたを救い続けて来た神である…また、十字架の痛みをもって、あなたを救った神である。これからも、あなたと共にいて救い続けて行く…だから、あなたは、私との絆において生きて行く他はない・私との絆に留まって欲しい…それが、あなたの命の道だから」との言葉として響いて参ります。
 ”十戒・十字架”を”神の救いに留まる道=命の道しるべ”として生きる者は「はい、私は神の下から出て行きません。神よ。あなたにしか、あなたの躰である教会という場にしか、私の命はありません」と答えるのです…神の”戒め”は私共の”命の道しるべ”だからです。  

  
V、戒めに込められた心

*主イエスは、私共に対しても、この”十戒”と”同じ心で招き”…”同じ応答の心を求めておられる”のです。
 ”応答の心”というのは”十字架の愛と痛みで成就された救いの御業”によって、”主イエスと、1つ絆につながれた者”が、”自由と愛と喜びにより、生ける神に喜んで頂く道を選んで行く…心”なのです。そうした歩みには”タテマエが無い”のです。

 しかし、人間の中に潜む”罪”は、そこに留まる事を良しとしないのです。現に、モ−セが十戒を授かった直後、モ−セが再びシナイ山に登って、神と出会い降って来るのを待つ間、山の下で、民は金の仔牛の像を造っていたのです。それ故、戒めには、敢えて誤解を生みかねない「〜ならない」との表現を用い、「何としても此処に留まって欲しい」と語りかけるのです。
 主イエスは、「放蕩息子」の譬えを通して、神の懐、祝福の家から逃げ出した者に対する”神の愛の招きと、愛による自由な応答”を語られたのです…此処に”戒めに込められた心”があるのです。
 ”戒め”を守る事…それは、決して窮屈な事ではありません。”十字架の主イエスの救いに対する、自発的な愛と喜びによる応答”なのです。
 そして、この道こそが”イエス・キリストの救いを無にしない道、私共が命に預かり続ける道”なのです。