「第二の戒め」十戒

出エジプト

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
   十戒:第二の戒め

*出エジプト記の20章3〜4節には、第一の戒めと第二の戒めが続いて記されております。

「あなたには、私をおいて他に神があってはならない。あなたは如何なる像も造ってはならない〜」…この中の”第二の戒め”を一言で言えば「あなたは如何なる像も造っては成らない」です。

 そして、この第二の戒めの後に、第一・第二の2つの戒めの理由が述べられています。この朝私共は、この戒めの理由を通し”神様の愛と、私共が【神を信じる・愛する】とはどのような事か”を学んで参ります。

  
T、戒めの理由

*神は此処で、他の神々を信じたり、偶像を造る事を第一に禁じられた理由を述べられました。

「私は主、あなたの神。私は熱情の神である」というのがそれです。…口語訳聖書では「主である私はねたむ神」という印象的な訳をしております。

 更に、神はたたみ掛ける様に「私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と述べられたのです。

確かに、”十戒”から旧約聖書を見直しますと、神は常にイスラエルの民に、この”十戒を生き抜くかどうかを問い、神の民としての自己確立を促しておられた”事が見えて来ます。

 また、神に立てられた預言者達も、一貫して「偶像を拝んではいけない」とのメッセージを神より受け語り続けました。見方を変えれば、人が如何に偶像になびき易いかを物語っているのです。

 此処で1人の預言者を取り上げたいと思います。それはホセアという預言者です。

ホセアは、「姦淫の女を妻として迎えなさい」と命じられ、しかし、その妻として迎えられた女性がホセアを裏切り、売春婦に成って行きました。

 深く傷ついたホセアに対して神は、再び言葉を与えられました。それは「その妻を買い戻して、再び、妻として迎えなさい」というものだったのです。此処に”神の民を愛し抜く神の愛が示されている”のです。

 [親分はイエス様]という映画を観ました…そこには、やくざ渡世に身を埋める夫の為、祈り続ける妻が描かれておりました。

極道の限りを続ける夫の馬鹿さを嘆き、ひたすら耐えながらも、その勝手な夫を,可哀想に想い、守りと救いを祈り続ける妻達でした(神の愛がそこにあるのです)…そして、その祈りは聴かれていたのです。

 やがて夫達はくすしい導きの中、教会に導かれ十字架を負って日本縦断を始めるに至り、増えて行く仲間達と共に”十字架の重さを通し、罪の重さと、赦しの重さを知って行った”のです。そして「私はキリストによって、こう変えられた」と証しながら行進し続けたのです。

 夫の罪を痛みつつ「可哀想に」と涙をもって祈り続けた妻達の愛は”アガペーの愛”神の愛なのです。

ホセアも神の言葉に従い、”妻を許し愛し抜く…その辛さと痛み”を通し、偶像に浮気する神の民を愛し抜く”神の愛(アガペーの愛)と、痛みを教えられた”のです。

 しかし、そこには厳しい”罪への断罪”と、そのままでは”祝福を失う”事が恐ろしい迄に語られてもおります…罪と審きは残るからです。

愛する事は甘やかす事ではありません”妬む程の熱い熱情の愛”ゆえに神は”厳しく罪を示しつつ…悔い改めへ”導いたのです。

  
U、偶像を造る心

 次に”偶像を造る心”について学んで参ります。口語訳聖書の”第二の戒め”には「あなたは自分の為に、刻んだ像を造ってはならない」とございます。

此処に”自分の為に”との言葉がありますが、この言葉には「自分に都合のいい神様が欲しい。心にやましさを覚える事をする時は、知らんふりしている神が欲しい。願い事だけ叶えてくれる神が欲しい」…と言う”自分勝手な心”が見え隠れします…それが”自分の為に”と言う事なのです。

 ”自分の為に神を造る人の心”は”神の愛も痛みも関係ない・まして神が真の神であるかどうかは尚更関係ない心”なのです。そこには、”神に対する人間の側の愛が無い”のです。

 何よりも、自分が造った神に対し、心からひれ伏す事が出来るでしょうか?…”自分にとって,都合の悪い神の御旨が示された時に,従う事が出来るでしょうか?”…いえ、偶像の神はあくまでも「私が、私達の神として祀ってあげるのだから、私達の言う事を聞きなさい」という神なのです。

 そこで偶像の虚しさを語る、預言者ハバククの言葉をハバクク2:18-19節から聴いて参ります。
  彫刻師の刻んだ彫像や鋳像/また、偽りを教える者が何の役に立つのか。
  口の利けない偶像を造り/造った者がそれに依り頼んでも/何の役に立つのか。
  災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い/物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。
  それが託宣を下しうるのか。
  見よ、これは金と銀をかぶせたもので/その中に命の息は全くない。

此処に如何に偶像が虚しいかが記されております。誰しも1度は、その虚しさを考えた事がある事かも知れません。

しかし、日本人にとっては、”偶像は心のふるさと化”している為、虚しさを感じつつも無条件で受け入れているのだと思います。

 更に、此処には”私共が陥りやすい偶像の神を造る危険”も語られているのです.

「口の利けない偶像を造る」とございます。それは”話す事も出来ない神”との意味に聞こえます。

しかし、私共の心の中にも「神様、此処は見ないでいて下さい。今、私の罪を責めないで下さい」部分があるのかも知れません…言い方を変えますと「此処は、私の世界です…神様、あなたは黙っていて下さい。控えていて下さい」という事なのです。

”願いは祈るが、後は黙っていて下さい。控えていて下さい”…それは”自分の為に役に立つ神を造る事”なのです。

 こうして見ますと、”キリスト者も、心で偶像の神を造っている”事に気づき驚きます。

キリスト者も、心の中で”生ける神を偶像の神に変える”…事もあり得るのです。御言葉には聴き従いたくないが、願いは祈り求める。どんな生活をしていても神の眼差しが気にならない。神より、感情に従う…それが”偶像を造る事”なのです。そうして造られた”偶像の神に命は無い”のです。

 ”神を神とする”事は、”自分を捨て、神と共に生きる事”なのです。ガラテヤ2:19-20に、その事が具体的に述べられております。  

 2:19 私は神に対して生きる為に〜。私は、キリストと共に十字架につけられています。
 2:20生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
     私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を献げられた神の子に対する信仰によるもので     す。

これ程まで”神に、ひたすらに自己の存在をかける愛、自己を明け渡す愛”…これこそが”十戒の心”なのです。

”主イエスと共に十字架に死ぬ事、主に徹底的に明け渡す事”…そして,私共を”妬む程の熱情で愛して下さるイエス様と共に生きる事”なのです。この事なくして”神を信ずるとは言わない”のです。

 この神の愛を、或る神学者は次の様に言いました。「人間は神なくして済ます事がある。しかし、神は人間なくして済ます訳には行かない方である」と…。
 人間は「神なんかいない。いなくたって平気さ」と平気で言います。けれども、神様は「人間がいなかったら困る」と言われるのです。

 それ程まで、”私共は神様に、かけがえのない者として痛み愛されている”のです。
あの極道の夫を涙の中で「可哀想、守って下さい」と祈り続けた妻達の様に…。

 だからこそ、”私共の心が、偶像の神を造るものとなってしまう時、主は妬まずにおれない。私共が自分を粗末にする、自分勝手な生き方を続ける時、主は痛まずにはおれない”のです。

 こうして学んで参りまして深く〜感じる事、それは”十戒を守る事”は、”神の愛に愛をもって応答する事”だという事です。

 「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きている」という迄、”主に愛され、主を愛し、キリストと1つになって生きる事”なのです。