「5つのパンと2匹の魚」5千人の給食A
マルコ
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
5つのパンと2匹の魚
*先週に続き、5千人の給食の奇跡物語から学んで参ります。
先週は、この物語から私共の困窮は、その”困窮を御覧になられている、主イエスの祝福の祈りの中に立っている”事を学びました。
今週は、1少年が献げた5つのパンと2匹の魚を祝福された主イエスが、男だけで5千人、1万人以上を養われた奇跡を通して、”神に受け入れられ、用いられる献身”について学んで参ります。
T、献身に先立つ祈り
空腹の1万人以上の人々を前にした弟子達が、人々に夕食を買いに行かせようとした…その時、主イエスは、それを留め、少年が献げた”5つのパンと2匹の魚”を御自身の下に持って来させたのです。
その”5つのパンと2匹の魚”を受け取られた主イエスは、天を仰いで賛美の祈りを唱え、その後、5つのパンと2匹の魚を弟子達に配らせました。
新共同訳聖書の6章41節には「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」とございますが…口語訳聖書では「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し」と訳されております。
新共同訳聖書からは「5つのパンと2匹の魚を持ちながら、神を賛美した」とのニュアンスを感じますが、口語訳からは「それを祝福し←5つのパンと2匹の魚を祝福した」というニュアンスで響いて参ります。
一体”神を賛美したのか?、パンと魚を祝福したのか?”果たして、どちらなのかと思いますが、原文を直訳すると「天を仰ぎつつ、良い言葉を語り」となります。
そこには”5つのパンと2匹の魚”を指す”それ”との言葉はございません…ただ”良い言葉を語り”となっております。
主イエスは、”天を仰いで、良い言葉を語られた”のでした。新教同訳が訳しております様に「神を賛美した」のです。
勿論、この”賛美”との言葉は”祝福・感謝”とも訳せる言葉であります。神様への祝福と感謝のこもった賛美の中で、この”献げものは、神に受け入れられ用いられた”のです。
今、米国はテロに対する報復攻撃の為、各国に協力を求め、武力の包囲網を造り上げております…敵と戦う為、力を求めるのが、この世の論理なのです。
この時の群衆は空腹でした。しかし、その根本原因は、腐敗した指導者のせいなのです。彼等のせいで群衆が”飼う者のない羊”の様な、惨めな状態にあった事に原因があるのです。
この困窮の中で、主イエスは、先ず”天を仰いで賛美の祈り”を献げられたのです。”力を求めて”「神様、天の軍勢をお送り下さって、この指導者達を倒して下さい。食料を下さい」と、祈られたのではないのです。
先ず、最初に”神への感謝と賛美を祈った”のです…その”感謝の中で、求め”を、”神を見上げて、強く、激しく、祈られた”のでした。
ある本に拠りますと、当時のユダヤ人は2つの態度で祈ったと言われます。
1つは、”地にピタッとひれ伏して祈る祈り”です。両手の平も、顔も床につけるのです。神の御心にひれ伏す祈りであります。
もう1つは、逆に、”天を仰ぎ大声で祈る祈り”です。この時、主イエスの祈りがそうでした。
祈りには”神にひれ伏し従う面と、神を見上げて求める面との両面がある”のです。
”祈りは、どんなものなのか?…何処を見て、どの様に祈るのか?”…今朝、私共は”キリストの祈り”から、【神を見上げ、神への賛美をもって、力強く求める】祈りの1面を学ぶのです。
U、献身を求める主
此処で私共が注意しなければならない事がございます…それは、この大いなる奇跡に先立って、主イエスの弟子達に対する1つのチャレンジがあったという事です。
それは「あなた方自身の手で民に食べ物を与えなさい」と言うチャレンジでありました。弟子達は、200デナリ…現在の1万円では1万人以上の食料を調達するのは不可能と判断したゆえ、各自に遠い人里まで買い出しに行かせようとしたのです。当然です。
しかし主イエスは、それを留められたのです。
それなのに,弟子達に「あなた方自身の手で民に食べ物を与えなさい」と言われ、幼い少年が献げた”5つのパンと2匹の魚”がある事を指摘されたのです。
弟子達は、どんなに驚いたかと思います。「5つのパンと2匹の魚で1万人以上もの人々を養うなんて何て言う事をおっしゃるのです。それに、私達に何が出来ると言うのですか?」と驚きいぶかったのです。
しかし、主イエスは、”大いなる御業の為に、主と共に働く同労者(献身)を求められた”のです…”献げものが僅かであっても、御自分の下に携えて来る”という”弟子達の働き”を求められたのでした。
そして主イエスは、自らの無力感しか見つめられない弟子達と、”5つのパンと2匹の魚”という僅かな献げものを用いられたのです。
V、賛美の中の献身
”5つのパンと2匹の魚”それは、僅かな食べ物でした。しかし、それは幼い少年が差し出した、”主への感謝と喜びが精一杯こもった献身”だったのです。
弟子達が、主イエスのチャレンジを受け”5つのパンと2匹の魚”という僅かな献げものを持って来た時、それを受け取られた主は、先ず最初に”賛美の祈り”を献げられたのです。
この様な”少年の感謝と主イエスの賛美の中”僅かながらも、心のこもった”献身が用いられて行く”のです。
その後、弟子達は、その献げものを主から受け取り、座らせた群衆に”自分達の手で配り始めた”のです…そして、そこに奇跡が起きたのです。
弟子達が分け与えていた”パンと魚は何時までも減らず、それ所か余ってしまった”のです。
弟子達は、12の籠一杯に余ったパンを夢中になって数えたに違いありません。無力しか見つめられなかった自分達と、僅かな献げものを用いて下さった、神様への感謝と畏れに満たされながら…。
ストロ−ムと言うドイツ人の婦人宣教師がおります。関西の釜ヶ崎と言う町で、労働者や、子供やアルコ-ル依存症の人々の為に20年間も働かれました。その働きのレポートが「希望の町」と言う本に成りました。
その中で彼女は次の様に述べております「今考えると大変でしたが、初めからそんなに大変だとは思いませんでした。
一歩やると次の一歩が出来ると言う感じでした。一歩やって足場を造り、その足場から第二歩第三歩の力が出て来たのです。
でも、日本人はなかなかそれが理解出来ない見たいですね。二歩や三歩じゃなくて、初めから10歩を考えます。その10歩が出来そうもないから一歩もやらない。それは私の信仰と違うのです。
計算して、出来るか出来ないかを考えるやり方も必要かも知れません。
けれど信仰生活というのは、御言葉より確信と平安とが与えられたなら『少なくとも第一歩をやったらいいんじゃないか。
第一歩が出来たら、その足場から又、次の一歩の為に、力も知恵も可能性も出て来る』と考える生き方です。私はそう信じています」と言うものでした。
実は”私共自身が、パンであり魚”なのです。また、自らを無力と感じていた”弟子達”なのです。
主イエスは「あなたが僅かであろうがなかろうが、私の下に1歩踏み出して来なさい。神様を見上げ、賛美する祈りの中に、1歩踏み出し、あなた自身を置きなさい」と言われるのです。
しかし、頑張って、いやいや献げるのではありません”賛美と、感謝の中で、1歩踏み出し自分を献げる”のです。
そうした献身は”主の手に握りしめられ、神に受け入れられ、用いられる”のです。
そんな献身の中でこそ”私の召し”という救いの出来事の中に”主が御計画”されておられた…”私の5千人の給食”を体験する事が出来るのです。