神に会う備え 出エジプト19:9〜25 マタイ5:8
出エジプト
19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
19:10 主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
19:11 三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
19:12 民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。
19:13 その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
19:14 モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
19:15 民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
19:17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19:19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。
マタイ
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
神に会う備え
*神がイスラエルの民をシナイ山に導かれた理由は”十戒を授ける”事と”御自身を民に現す為”でありました。主はモーセに向かって「見よ、私は濃い雲の中にあってあなたに臨む。私があなたと語るのを民が聞いて、何時迄もあなたを信じる様になる為である」と言われたのです。主なる神は,御自身をお現しになる事で,イスラエルの民の”神への信仰を確立し”また”神に起てられているモ−セへの信頼の確立”を意図されたのです。更に神は,イスラエルの民に対し”聖なる神にお会いする為の備え”を命じられました。この朝,私共は共に”聖なる神にお会いする備え”について学んで参ります。
T、神と出会う備え
此処で,神が出された幾つかの命令は”着物を洗う事・シナイ山に設ける境界に手を触れない事・性的な潔癖を守る事”でした。そうした”備えの行為”を神が求められたのは”心の備えに導く為”だったのです。
私の家は商売人だった為,お正月が近づくと大掃除をしました。そうした中で,新しい年を迎える心備えが出来た事を思い出します。”洗濯という備え”は,外を聖める行為を通して”内なる心の聖めの必要に気づくようにとの促し”でありました。こうした,1つ〜の備えの中で”罪を告白し心を聖める”という心備えが生まれて行ったのです。
これらの事は,私共の礼拝への姿勢にも通じます。礼拝には,華美な服装をして出席する必要はございません。しかし,清潔な服装で主にお会いする心構えは大切です。何故なら,そうした心構えが”悔い改めた聖い心で,主を礼拝する事につながる”からです。
また”性的な潔癖さを守る命令”は,決して性を軽視したり,性を汚れたものとしているのではありません。ただイスラエルの民の思いを”いと高き方にのみ向ける為”だったのです。
その様な備えをする内に、神様が御顕現下さると約束された3日目が訪れました。山の頂にモクモクと密雲が立ち込め始めました…これは,イスラエルの民が”神の御声だけを聴き,その御姿を見て死ぬ事が無いようにとの神様の配慮”だったのです。
神様とお会いする備えが整った時,雷と稲妻が光り出し,天の角笛の音が高く鳴り響いたのです。そうした中,モ−セは恐れる民を山の麓に立たせ,そして,ついに”神の御顕現がシナイ山に現れた”のでした。主なる神が,火の中で山の上に降りて来られた時,シナイ山全体が煙に包まれ,煙が,かまどの様に立ち上がり,全山が激しく震えたのです。神様は1つ〜の備えをしたイスラエルの民の前に,雲と雷鳴,稲妻等によって神の御威光を現されたのです。
U、神の御声を聴いた民
*昨日まで静かだったシナイ山の変貌を見た,イスラエルの民の心は,恐れに覆われました。子供達も両親の側で震えながら、その光景を心に焼け付けただろうと思います。そんな中、神の角笛の音が鋭く鳴り響いたのです。そして,モ−セが神に呼びかけると,神は雷鳴をもって答えられたのでした。
その御声は期待に反し,モ−セを再び山に呼び寄せるものでした。高齢のモ−セにとって,僅かの期間に,2千mを越す山に何度も登る事は,相当大変だったと思います。しかし、それには訳があったのです…民が,主の姿をもっとハッキリ見ようと山に近づいたからでした。モ−セは,まさか警告を聞いている民が,境界線を超えて山に近づかないだろうと思ったのです。しかし,再度主が仰せになるので,主の警告を民に告げる為に,山を降りて行ったのでした。
イスラエルの民は,好奇心から主を見ようと,柵を押し破って山に登ろうとしたのです。信仰によって,主に近づこうとしたのではありませんでした。イスラエルの民の,神様に対する知識はまだまだ稚拙なものだったのです。主なる神は,人が見たり触れたり出来ない聖なる方で,人が汚れたまま神の御前に出ると,その聖さに押し潰される様に滅ぼされてしまう…と言われても理解出来なかったのです。
もし民や動物が柵を押し破って入り”神の聖さ”に触れ,尚,生きていたならば,その人や動物が”聖なる神に触れた神聖なもの”として”神格化”される危険があったのです。それ故,神様は,御自身に触れた者を滅ぼされずにはおれなかったのです。
こうした紆余曲折の後,イスラエルの民は,聖なる神を畏れる事を学び,そうした民に対し神様は,御自身を現されて十戒を語られたのです…神の姿を見る事が出来たのは1部の許された者だけでした,民は神の姿を見る事は出来なかったのです…しかし,主の御声を聴いたのです。生ける神の御声を聴いた民は,世界中で,このイスラエルの民だけだったのです。
V、神とキリスト者の備え
この様に,神の御声を聴く為には”身と心を聖める備え”が必要でした。この事は私共キリスト者にもあてはまるのです。そして,その為に,神様と御子イエスは”十字架”という余りにも重く痛みの伴う備えをして下さったのです。神様は,十字架の上で,全ての人々の汚れを背負われた,御子イエス・キリストを滅ぼされたのでした。
と同時に,私共にも備えが求められているのです。アモス4:12に「イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」とございます。聖書は私共にも「あなたの神との出会いの為,備えなさい」と語るのです。
しかし,それは,何か自力や修行で,神様と出会う為の備えをする事ではございません。ただ”神御自身が,痛みをもって与えて下さった尊い備えを守る事”なのです。 マタイ5:8に「心の清い人々は幸いである。その人達は神を見る」とございます…人が神様と出会う場は”聖い心”なのです。”キリストが,十字架の血潮によって聖めて下さった心を守る事”こそが”私共の備え”なのです…それが”神と出会う事の出来る場”だからです。
その”聖い心を守る事”は”聖い主イエスと共にいる事”に尽きます。言いかえれば”主イエスの言葉を聴き続ける事”なのです。今日,主は私に何を語って下さるのか?…喜びと素直さをもって御言葉に聴き,従順と悔い改めをもって歩む事なのです。それが永遠の祝福に,永遠の報いと慰めにもつながるのです。
Tテサロニケ4:16−17に主イエスの再臨の預言がございます…「大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活し、それから私達生き残っている者が、空中で主と出会う為に、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。この様にして、私達は何時までも主と共にいることになります」というものです…私共は”何時の日にか主にお会いする”のです。そして”永遠に,主イエスの臨在による慰めと喜びに生きる”のです。しかし”「主よ,主よ」と口だけで心と行いの伴わない者は,その時地上に残される”とも聖書は告げます。御言葉から癒しと力を受け,アガペーの愛に生きた者、また、罪の赦しに生きた者は,やがて主にお会いした時「私の心に叶う者よ」また「良くやった忠実な僕よ」と迎えて頂けるのです。そして永遠にアガペーの愛の世界に生きるのです。
先週の聖書通読箇所のUテモテ1:16−18に「どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんで下さいます様に。彼は、私をしばしば励まし、私が囚人の身である事を恥とも思わず、ローマに着くと私を熱心に探し見つけ出してくれたのです。どうか主が、かの日に、主のもとで彼に憐れみを授けて下さいます様に」とありました…パウロは主イエスの為に囚人となったゆえ,主に深く〜,かの日に,主の憐れみに預かる事を示されたのです。ゆえに,世間体を捨てて囚人パウロに仕えたオネシフォロの家族も,かの日に,主の憐れみに預かれる様祈ったのです。
コロサイ1:24に「今,私は、あなた方の為の苦難を喜んで受けており、キリストの躰なる教会の為に、キリストの苦しみのなお足りない所を、私の肉体をもって補っている」とございます。
今、入院中のO姉を訪問致しますと「私達はキリストによって良い事だけでなく、苦しむ事も賜っています…キリストの良い兵卒として闘う義務もあるのです」とおっしゃるのです。私共は、御言葉に従う中で”主イエスの為に苦しみさえも背負って従う,全ての者は,共に居て下さる主を深く知る”のです。
私共は”神様と御子の十字架への献身”によって”主とお会いする場”である”聖い心”を与えて頂きました。地上の生涯でも,永遠の世界でも,主イエスと共に生きる為,共に,御言葉を慕い求め”聖い心を守って”参りましょう。