教会の派遣    マルコ6:6〜13

6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
   教会の派遣
*故郷に拒絶された主イエスは,御自身に託された使命へと心を切り換えられ,12弟子を選び宣教へと派遣されたというのが,今朝の物語です。
 教会という言葉には”代表者会議”との意味もございます。教会は、この世から代表者として,召し集められた者達が,主に出会い礼拝を献げ,恵みを受けて,それぞれの持ち場へと遣わされて(派遣)行く所なのです。そして,その原型こそが、この12弟子の派遣なのです。

   
T、派遣の為に召される者
*宣教にあたり「主イエスは12人の弟子達を呼び寄せられ」ました…この”12という数”は、イスラエルの12部族を暗示するもので”神の民”を象徴するものです。此処で主イエスに呼び寄せられた12人は”主イエスの民”として召し出されたのです。
 マルコ3:14には「十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置く為、また、派遣して宣教させ」とございます。12弟子を”使徒”として召されたのです。”使徒”には”代理人・遣わされた者”との意味がございます。
 主イエスは,この12使徒を”御自身の側に置かれ,御自分の分身の様に形作られ「汚れた霊を追い出し、病人を癒す権威を授けて」派遣され、また”御自身の代理人”として「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教の言葉を託されたのです。
 使徒達が,主の分身,代理人とされた様に,私共キリスト者も,周りの人々に”主イエスの姿を映し出す者として召され,派遣された”のです。主に招かれた者は”朱に交われば赤くなる”の如く,主イエスの”御そば”に生き、御言葉に聴き祈る,主と交わる人生を通し,主に似たものとされ派遣されて行くのです。これが主に召された者が,主から受けるお取り扱いなのです。

   
U、派遣されて伝えるもの
*主イエスは,使徒達を2人ずつで派遣されました。この”2人”の持つ意味は”証言と交わり”です。当時のイスラエルでは、証言は,2人以上でなければ認められませんでした。使徒達は”福音の証言者”として派遣されたのです。
 また”交わり”は「二人もしくは三人が集まっている所には、私も、その中に居る」と言われる、アガペーの愛の主による交わりを意味します…”教会は、アガペーの愛の交わりを通し、福音を証する所”なのです。
 さて、アガペーの愛に結ばれた主の証言者達は「悔い改めさせる為に宣教した」とあります様に、主イエスのメッセージを携えて行ったのです。
 マタイ書には,主イエスは”使徒達を迎え入れる家があったなら「平安があるように」と挨拶しなさいと言われた”とございます。この”挨拶をする”という言葉は,元々”抱擁する”という意味がありまして,使徒達は、その家の家族を抱きしめながら,自分達の持っている平安を手渡したのでした。
 そして,その平安は,使徒達が,主イエスに授けられたお言葉によって与えられるのです。主イエスは…先ず最初に「神の国が近づいた」と告げなさいと言われました。使徒達が携えて行った”平安”は”神の力ある支配による平安”なのです。
 人は親しい人を亡くした時,手足がもぎ取られる様な,喪失感と寂しさを伴う悲しみで覆われます。そうした中にある方に対しては,かける言葉が無く「この度はどうも〜」と言って頭を下げるばかりです。しかし,キリストの言葉を聴く心をお持ちの方には、悲しみを悲しみ切る,そんな心の隣人となりながらも…悲しむ心を抱きしめながら「主の平安がある様に」と語るのです。”神の平安は,死の悲しみの中でさえ与えられるもの”だからです。私共は「主イエスよ,この悲しみの中に,平安そのものとなって来て下さい」と祈るのです…それが教会の,私共の成すべき事なのです。
 しかし、その主の平安に預かる為には”心が新しく生まれ変わる必要がある”のです…人は心が新しくされ”聖さと,平安に満ちた主イエスに、心を支配して頂いて…初めて、聖められて神と出会い、主なる神が共にいる平安に預かれるから”です。ゆえに主は使徒達に「悔い改めて福音を信じなさい」とのメッセージを託されたのでした。
 更に主は、使徒達を迎え入れず,言葉を聴こうとしない人々に対しては「足の塵を払い落としなさい」と言われたのです…これは”神を信じない心に触れた汚れを払い落とす”事なのです。マタイ書に拠りますと,弟子達の言葉を受け入れない事は「ソドム、ゴモラの地」よりも,もっと重い罪を犯しているからと言うのです。
 何故,これ程厳しい言葉を語られたのでしょうか?…それは”使徒達や教会の言葉は、キリストの言葉”だからです。”神の権威と同じ権威ある言葉を、使徒達が、そして礼拝において教会が語る”からなのです。
 どんな小さな教会でも、私共の”平安を祈る言葉が軽んじられてはならない”のです。キリスト者が「此処に平安があるように」と主の御名によって祈る時”神が罪を赦し、平安をもたらす為、臨んで下さる重みを、キリスト者も軽んじてはならない”のです。そして,この言葉こそが、主に派遣された者が携えて行くものなのです。

   
V、派遣される者となる資格
 では,この神の権威を授けられ派遣される者になる資格とは何でしょうか?…その事を考えるにあたり,派遣された使徒達の中に,主を裏切ったイスカリオテのユダがいた事に目を留めます。主イエスは勿論、ユダが主イエスを裏切る事を見抜いておられたのです…しかし、そんなユダさえも教会の中に入れられ,人々を抱きしめて「神が此処におられる平安があるように」と祈り歩いたのです…この時,使徒達は”神の国の到来”を語っただけではありませんでした。病を癒し、死人を甦らせ、悪霊を追い出したのです。そんな”実力あるイエスの平安”を語っていたのです。
 しかも「空っぽの財布で何も持たず、杖も靴も持たないで行け」と命じられたのでした。聖書において,靴を脱ぐ所は”神の宮・神の臨在の前”でした。又、空っぽの財布は,神様が配慮して下さる事をお教えになろうとされたのです。使徒達は、この命令を通し、主イエスに「何処に行くにも,神の御前を歩みなさい。神の配慮と支配の中を歩みなさい」と語られたのです…ユダさえも”神の力と臨在の支配の中で派遣されていた”のです。
 御自身を裏切るイスカリオテのユダもいる教会を”平安を祈る群れ”として派遣される主を,私共は心に刻みたく思います。私共も”主の寛容によって,召され派遣されている”のです。
 ユダに殺されて行く事さえ受け入れる,主の愛の決意が無ければ、ユダを平安の使者として派遣する事など出来ないのです。そして、それは私共の為でもあったのです。
 何故なら、私共にも主を裏切る弱さがあるからです。崩れてしまうからです。しかし、そんな弱さに挫折し涙する中で,私共は、しっかり抱きしめながら平安を祈って下さっている主イエスを知るのです。
 私共は,主に抱きしめられ祈られているからこそ,悲しみの中、悩みの中、挫折の中でも「あなたに平安がありますように」と派遣され語れるのです。使徒達は、主の業がなされる度毎に”自分には一切資格が無いのに、神の恵みによって生かされている事を痛感し,主を畏れた”のです。何か資格があったから召されたのでは無いのです。先週の説教で”神がイスラエルを選ばれたのは,最も小さな国民だったから”と聴きましたが,それは私共も同じなのです。
 この朝,心を1つにして,ありのままの私共が”主の召し”の恵みに生かされ,罪や弱さを赦され,抱きしめられて癒され,支えられている事を見上げ,平安を伝える者として派遣の召しの前に立ち上がって参りましょう。