主イエスの帰郷 マルコ6:1-6、ルカ4:16〜22,28〜30、ヨハネ1:12
マルコ
6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
ヨハネ1:12
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
主イエスの帰郷
*ヤイロの娘を甦らせ、力ある預言者、もしくは救い主ではないか?…と注目されはじめたイエスは、そこを去り,救い主として公生涯に入られてから,初めての帰郷をされたのです。ルカ4:14では、この帰郷を”退いた”と記しております…主イエスは、故郷に錦を飾ろうとしてではなく、充電と休息を求めて退かれたのでした。
故郷が、何故、充電と休息を与えるのか?…心の充電と休息は”受容される中で与えられるから”です…幼い頃”ありのままの自分が受容された時”を思い出させる故郷は,人をホッとさせるのです。私事ですが、波瀾万丈だった生い立ちの中、幼少期の3年間だけが,ありのままで過ごせた時でした。その時期を過ごした山形の実家に帰郷した時、運転しながら昔のままの景色を見ている内、気が付くと一筋の涙が頬を伝っておりました。その時「故郷に包まれるとはこういう事なのだあ」と思いました。では主イエスの故郷は,主をどの様に迎えたのでしょうか?
T、主イエスを拒否した故郷の人々
主イエスは御自分が育った町に帰郷されて,イザヤ書に預言されている”救い主がなさる業”を成就されたのです。ルカ4:16〜19「イエスはお育ちになったナザレに来て、何時もの通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして…預言者イザヤの巻物が渡されお開きになると〜『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせる為に、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる為である』」…そして,この様な”神の権威と力が伴う,イエスの言葉を聴き御業を見た”故郷の人々は驚いたのです…しかし,驚いて信じたのではなく”驚いて主に躓いた”のでした。
「我々はイエスの事は小さい時から知っているし、家族の事も知っている。彼は大工ではないか?…それなのに何故、こんな”力ある業”をするのか?こんな知恵を持っているのか?一体何処で習って来たのか?」と言ったのです…此の”力ある業”と言う言葉は,癒しや悪魔払い等の”神の権威の力による業”を指す言葉です…主イエスの故郷の人々は,主のお言葉と御業に,神的な権威と力を認めながら”主を拒否した”のです。人は救い主を拒否しますと,救い主の存在そのものが目障りとなります…その結果,ルカ書によると、ナザレの人々も,ご他聞に漏れず,崖から主イエスを突き落とそうとしたのです。
主イエスを,救い主と信じない迄も,自分の町から,力ある預言者が出た事を誇りに思っても良いのではと思うのですが,何故そこ迄,主を拒否したのでしょうか?…一言で言えば”主が故郷の人々の気に入る説教をされなかったから”でした。
主イエスは御自身の”力ある御業”を”主の恵みの年を告げる為である”と言われました。此処の”恵みの年”とは”ヨベルの年”の事です。ヨベルの年は,ユダヤでは50年毎にやって来る解放の年なのです。ヨベルの笛が吹き鳴らされますと,借金は帳消しにされ,奴隷は解放される等,様々な重荷や負い目が取り去られる年なのです”主の恵みの年”とは”罪や重荷に囚われた者が解放され,心の目が開かれ恵みが見える”…”救い主による,究極のヨベルの年”なのです…この様な”恵みの時が,救いの世界が,主イエスによって始まった”と言う説教が”主の故郷ナザレの人々は気に入らなかった”からです。
所で,この”恵みの”と,主イエスがルカ4:24で「預言者は自分の故郷では”歓迎されなかった”」と言われた”歓迎される”というのは”同じ言葉”なのです。
この”恵みの”と”歓迎される”の言葉には”気にいる”という意味もございます…”人が救われ,解放される…恵みの世界”は,神様が何よりも深く”歓迎される・気にいる世界”だったのです。思えば”気にいるとか,いらない”というのはわがままな事です。しかし、静かに我が身を省みて見ますと,自分が思う以上に”気にいる,いらない”という感情で自分が振り回されている事を思いますし…その結果,自分が思う以上に”主の御旨を見失っている”のかも知れないと思わされました。
ナザレの人々は”神が歓迎し,深く気に入った主の恵みの御業”を,主イエスを殺そうとする程”気に入らなかった”のです。初めは主イエスの説教に感嘆していたのに気に入らなくなったのです…何故でしょうか?
その訳は「この人はヨセフの子ではないか?」との言葉にございます…恵みの言葉は素晴らしい”しかし問題は,この男だ…我々の良く知っている大工のヨセフのせがれに,何故ひれ伏し礼拝しなければならないのだ?…と言う感情”だったのです。
この人はこういう人だ,と思っていた人がそうでなくなる時…急に遠く感じ始め,寂しさや嫉妬が生まれ,愛が冷えて行くという感情を経験する事がございます。ナザレの人々はイエスの知らない側面…救い主という側面に付いて行けず,ひれ伏して礼拝出来ず”気に入らないと言う感情に支配された”のでした。もしかすると、私共も同じ事をしているかも知れません?…御言葉を気に入る・入らないの世界で,御言葉に聴かず神の御業を体験出来ずにいる…主を拒否した人々と同じ所に私共も留まるのです。
U、イエスの真の故郷に住む人
主イエスの真の故郷は「天」なのです…しかし主は、そこを離れ、天国に比べたら一瞬たりとも耐え得ないであろう、汚れたこの世を故郷として下さいました…そして疲れた心を携えて,地上の故郷へと帰って来られたのです。しかし人々は,そんな主を拒ばみ殺そうとしたのでした。
この世を故郷とする人間は”救い主なんて私に関係ない。此処は私の故郷だ。これは私の人生だと,主イエスを拒否して生きる”のです…しかし,それは”人生を私(わたくし)する罪”なのです。何故なら「私の人生を自分の好き勝手に生きて何が悪い」との生き方では”欲や感情の奴隷となって生きる人生からは1歩も出る事が出来ない”からです。
汚れ歪んでいる心、欲や感情に支配された”心の命じるまま生きて”果たして隣人を愛せるでしょうか?神の栄光の為に生きられるでしょうか?…”出来ない”のです。
ヨハネ1:12に「しかし言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とございます…人が”イエスを救い主と信じる時”人は初めて”自分の故郷から出て、主イエスの真の故郷に住む事が出来る”のです。
それは主イエスの御支配の中に生きる事”です…そして,それこそが”キリストを信じるという信仰”なのです。キリストと関係の無い生活をする者は、主イエスを信仰しているとは言えないのです。
大西姉が「私の怪我を十字架という人がおりますが,これは試練です。十字架は自ら負うものです。祈り砕かれて御言葉に従うものです。全てのキリスト者に,自ら十字架を負って,主イエスが求められる主の器に成って欲しい…私も,この病床で十字架を負って行きたい」と言っておられました…この朝私共は、共に、土居教会という共同体が,また私共1人〜が主イエスの真の故郷に住む者として頂ける様祈り求めたいと思います。
ナザレの人々の様に”気に入る・いらない”で御言葉に聴く頑な心を捨て”主イエスを・主のお言葉を受け入れ、主の御支配の中に生きるなら…神様が歓迎し、気にいられた恵みの世界に生きる事が出来るのです…罪や重荷から解放され、悪意に主の愛で勝つ恵みの世界に生きる事が出来るのです。