聴く耳を持つ 出エジプト18章、イザヤ55:3
18:1 モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。
18:2 モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、
18:3 二人の息子を連れて来た。一人は、モーセが、「わたしは異国にいる寄留者だ」と言って、ゲルショムと名付け、
18:4 もう一人は、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って、エリエゼルと名付けた。
18:5 モーセのしゅうとエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行った。
18:6 彼はモーセに、「あなたのしゅうとであるわたし、エトロがあなたの妻と二人の子供を連れて来た」と伝えると、
18:7 モーセは出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけした。彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入った。
18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると、
18:9 エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、
18:10 言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。
18:11 今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
18:12 モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。
18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。
18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。
18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。
18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。
18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、
18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。
18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。
18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。
18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、
18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。
18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
イザヤ55:3
55:3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
聴く耳を持つ
*今朝の物語は、モ−セと義父エトロとの再会の出来事です。レフィデムを出発したイスラエルの民は、いよいよ最初の目的地である”神の山シナイ山”の麓に近づいて参りました。
その山はモ−セの人生を変えた山でした…シナイ山で,モ−セは人生の1/3の間かくまわれ、妻と巡り会い、燃え尽きない柴の炎の中から神の言を聴き召し出されたのです。
モ−セは40才の時、エジプトから命からがら逃げて来て、ツィポラと出会いゲルショムとエリエゼルの2人の子を授かりました。最初の子ゲルショムとの名には「私は異国にいる寄留者だ」との意味があり、次男エリエゼルには「私の父の神は私の助け,ファラオの剣から私を救われた」との意味がございます。この2つの名を並べて見ますと,最初の子の名には”モ−セの孤独”が現れており,第2子には”モ−セの信仰と希望”が現れております。
この名から,ミディアンの荒野での40年の歳月は,モ−セの心を癒し、信仰を成長させた事が見えて参ります。モ−セが80才に成り、人格も信仰も円熟した時、このホレブ山とも言われるシナイ山において、イスラエルの民を救い出す器として召し出されたのです。
神の召しに,献身をもって応え、エジプトに旅立つにあたって,モ−セは,その使命の危険さ故,妻ツィポラと子供達を義父エトロの元に残したのです。
シナイ山の麓まで来たこの時,おそらくモ−セは,残して来た妻ツィポラと子供達の事に思いを馳せていたに違いありません…そんな時,義父エトロが妻ツィポラと子供達を連れて彼を訪ねて来たのです。1年半ぶりの再会です。そして,その間,余りに多くの出来事が起きました。神がエジプトに下された10の災い,紅海途渉,荒野の導きなど,生ける神の力ある御業について喜びと力を込めて語り続けたに違いありません。エトロはモ−セの証を聞き続ける中で,ヘブル人の神は,これ迄聞いた,全ての神に勝って力ある神である事を確信するに至り「主を讃えよ/主はあなた達をエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、私は知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまった時にも/主は全ての神々に勝って偉大であった事を」18:10-11と主を賛美し,主なる神への信仰を告白したのでした。そしてエトロは全焼の生贄を神に献げ、それを共に食したのです…これは礼拝以外の何ものでもありません。エトロは異教の神に仕える祭司であった筈です。しかし、此処でモ−セは,エトロ自身の手で神に礼拝を献げる事を容認しているのです。此処に,エトロが改宗したと言う伝承が真実みを帯びて響いて参ります。 兎に角、宗教家であったエトロは,敏感にヘブル人の神に,生ける真の神を見出したのでした。生ける神と共に歩む姿は、つまり”生ける神の言に,謙って聴き従って行く姿”は,ダイナミックな歩みをもたらし,世の人に生ける神を指し示して行くのです。
T、聴く耳を持つ
*キリスト者として円熟するという事は”神の言を聴く心の耳が開かれて行く”という事ではないでしょうか?… 謙った心で”神の言に聴き従う人”は”自我が砕かれた人”なのです。 ”神の言を聴く人”は”神には従うが人には頑固な人”ではなく”神は愛すが,人には冷たい人”でもないのです…”神の言を聴く人は,人の言をも聴く人”なのです。
モ−セの様に主と共に歩んだ証を通し,世の人々さえもが神様に心を開いて下さる時は、キリスト者にとって最上の喜びの時であります。しかし、そうした時は,サタンに対し隙を与えやすい時でもあるのです。何故なら,順調な時は,謙遜さを失い,謙って聴けなくなり易いからです。聖書学院時代,ある教授が「自分に絶望している時の方が、聴衆に対し、神の言を届ける通り良き管と成りやすい」と言われた言葉を思い出します。
或る青年の姉妹がおられます。この方は父親の仕事の関係で、東南アジアで子供時代を過ごされました。現地の人を雇用するという会社の方針で、家にはメイドさんがおられ,お嬢様として育ちました。私も時々ビックリした事がありましたが,その姉妹の素晴らしいのは、そうした自分を良く知り、焦らずに、人の言葉を聞いて成長しようとする姿勢でした。婚約された時も「私は人の言を聞いて参りますので、何でも言って下さい。何でも教えて下さい」と御挨拶されたのです。感心しました,この様な方は,人間も信仰も成長すると思います。
モ−セは家族と再会した翌日,何時もの様に裁きの座に着き,1日中,民の問題を裁き,悩みを聞いてカウセリングしていたのです。カウセリングや牧会は,小手先のテクニックで出来るものではありません。必死の思いで悩みを相談する方は,相手を見抜くからです。自分の存在そのもので,相手の痛みを受けとめ共感しつつ,重荷を共有する所から,言葉が癒しや慰めとして届くからです。ゆえに、悩みを聞く者は,心を消耗するのです。モ−セの様に何百万人もの重荷を負うという事は,そうそう続くものではありませんでした。
エトロは,そんなモ−セに対し「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人、五十人、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があった時だけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えて下さるならば、あなたは任に堪える事ができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰る事が出来よう」18:21〜24…と助言したのです。
民数記11章に拠りますと,確かにこの後,モ−セが,こうした重荷の大きさを神に嘆き70人の長老を立て牧会の重荷を分担して共に負う事を,神に命じられたのです。こうして裁きと牧会の同労者が立てられたのです…この事は今日の教会の長老・役員に通じます。こうして見て参りますと,エトロの助言の的確さが分かります。
モ−セはエトロの助言を,即,聞き入れました。もしモ−セが,心の耳が閉ざされた人であったなら「私は神と共に歩んで来た。神は必ず私に力を与えて下さる」と言ったかも知れません。しかしモ−セは違ったのです。確かに不信仰な言葉には耳を閉ざし,神の言を見上げなければなりません。しかし,エトロの助言は決して不信仰な言葉ではありませんでした。モ−セは,この助言を受け入れたのです。
先週の礼拝にて,真鍋ヤス子姉が,大西姉の為に祈る中で与えられた御言葉をもって祈って下さいました。イザヤ55:3「耳を傾けて聞き,私のもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。私はあなた達ととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみの故に」…祈りをお聴きしながら「耳を傾けて聞き,私のもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」との御言が主イエスが語りかけて下さるお言葉として響いて参りました。確かに、主イエスの身許に行って”お言葉に聴き従う時,命を得る事が出来る”のです。
共に祈っております大西姉も、先週もお話しましたが,痛みで眠れぬ夜「どうして、この年でこんなに苦しむのでしょうか?」と祈られた時、主が幻の中で「あなたは一粒の麦なのだよ…多くの人々の祝福となるのだよ」と語って下さったそうです。そうした中「こんな私をも一粒の麦として用いて下さる事が分かったから本当に嬉しい」と証をして下さりました。 また怪我をして運ばれた時,歪んだ足を牽引する為、僅かの麻酔で骨に穴を開ける手術をされました。その時の痛さ故に,2度目の手術をすると聴かされた時,なかなか前向きになれない様でした。そんな時、お医者さんからお聞きした手術の必要性に納得し,更に,御言葉に聴き,主の栄光の為に生きようと、前向きに手術に向かわれたのです…強いしっかりした,信仰と心をお持ちと同時に,開かれた心の耳を,柔らかで素直な心をお持ちだなあ…と思いました。人は幾つになられても、神の言、人の言に対して、開かれた耳を持つ事が大切なのです…そこから命を得る事が出来るからです。
宣教と伝道の関係が正に此処にあるのです…神様が私共に宣教をして下さっておられるのです。御言葉を語って下さっておられるのです。そこから私共の伝道が生まれるのです。私共が、神の言を聴かずに神の力と命が伴う福音を伝える事は出来ないのです。
しかし、御言葉を聴けないのは他の誰でもなく自分自身かも知れません。1人〜が、神の言を聴けない自分自身を見つめる事が大切なのです…自分の内に,神の言に聴き従えないものがあると感じた時”主イエスの御前に座し,聖霊の助けによって祈り献げ”私共が”主の言葉を聴く耳を持った者=主のもの”と成る時”主の命を得る”のです。更に,その祝福と命は,私共の周りの人々にも及んで行き、神の栄光が現されて行くのです。