昇天と聖霊
使徒言行録1:6〜11
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      昇天と聖霊

*第2次大戦中ドイツにおいて、若い牧師を教育しつつ、ナチス・ドイツを率いるヒトラーに抵抗しながら教会を形成し続け、終戦間近にヒトラーによって命を落とした、ディトリヒ・ボンヘッファーという若い神学者がおりました。
ボンヘッファーは説教で「分かり切った事が私共に喜びを与える事はありません。私共の心に喜びの炎を点火するのは、自分の理解を超えた。しかも真実な事、本当に起こった事、命あるものでしかないのです」…こう言った後、更に、そうした喜びが何処にあるのかを語りました「それは教会に於いてではないか?…『天に帰り』と、キリストの昇天が語られている教会においてではないか?…主を待ち続けている、この教会において、教会が聖餐を祝う度に主イエス御自身が会って下さる…その時ではないか?」と語られたそうです。
 主イエスは、十字架で苦難を受け、3日目に死を滅ぼし,復活してから40日に渡って使徒達の前に御自身を現されました。
 そして昇天前に「あなた方は、聖霊を受けると力を受け、主イエスの証人となる…約束された聖霊を待ち望みなさい」と命じられ、人々の見ている前で”天に上げられ雲に覆われて見えなくなった”のです。今朝は、この主イエスの昇天の出来事が、聖霊を注ぐ為であった事と、私共が、聖霊に預かる為に大切な事とを学んで参ります。

  T、聖霊を注ぐ為の昇天
此処の”雲に覆われて見えなくなった”との表現は”神の栄光に満ちた臨在に迎え入れられる”事を現す伝統的な表現です。即ち、主イエスの昇天は”栄光に満ちた神の御臨在される場への帰還”でありました…主イエスは天において”神の一切の権威が与えられ、そして、その神の栄光と力を与える御方と成られた”のです。
 マタイ28:18〜20に「私は天と地の一切の権能を授かっている…私は世の終わり迄、何時もあなた方と共にいる」とございます。主イエスが天に帰られた時、それは弟子達にとって実体ある主とのお別れでした…それは、死を打ち破られた生ける神を見て心踊らせる事が終わる時、言葉に言い表せない安心が取り去られる時、正に、膨らんだ風船が萎む時だったのでしょうか?
 いえ、そうではありません。主の昇天の時は”主イエスが、神の一切の権威を持って、私共と共にいて下さる事が始まった時”だったのです。主イエスは、その恵みを与えられる為に「聖霊を待ち望みなさい」と言われて天にお帰りになられたのです。
 そうした世界の転機とも言える時に、自分達が置かれている状況を知らない弟子達は、天に昇って行かれる主イエスを、しがみつく思いで見つめていたのでした。
 それは、キリストが復活された時、空の墓にしがみついて泣いていたマグダラのマリヤを思い起こさせる光景だったと思います。そして、その時も、この時も、天使が神のメッセ-ジを告げたのでした。この時,天使は「ガリラヤの人達、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」と告げたのでした。
 この時「また,おいでになる」との”御使いの言葉”を理解できない弟子達でしたが、おそらく弟子達の心から、この、御使いの言葉は、片時も心から離れなかったであろうと思います。弟子達は御使いの言葉を反芻しながら、オリーブ山からエルサレムへと帰って行ったのでした。
 主イエスが”またおいでになる”…それが再臨の時なら分かります…でも「世の終わり迄共にいる」一体それは、どういう事か?…そして、弟子達はその意味を”ペンテコステにおいて知った”のです。”心合わせて祈る所に聖霊が注ぎ「あーこれが主と共にいる世界なのだ」と、生ける主の証人となった”のです。
 今朝の教会学校で、大西先生が、千葉和幸という人は”牧師であり、夫であり、父である”同じ人だけど役割が違うという事で、三位一体の神を説明しておられましたが、なるほどとお聞きしておりました。主イエスは、聖霊なる神として、信じる全ての者に対して御臨在下さります。聖霊を受けた弟子達は、礼拝の中に主がおられる事を、聖餐を囲む所に主がおられる事を、主イエスを宣べ伝える所に、御言葉を信じる所に、そして、主の為に苦しむ所に主イエスがおられる事を知って行ったのです。それ故”主を伝える言葉に、命と力が溢れ出した”のです。
この時の生まれたての教会も、私共の土居キリスト教会も、”既に”与えられた”十字架と復活による救い”と、”やがて”キリストの再臨によって与えられる”完全なる救い”の間、この”既に”と”やがて”の間”聖霊において共にいて下さるキリストを知り、主を証して行く”のです。 
 ヨハネ3:8に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」とございます。今、主イエスは父の右の座において、父より聖霊を受け、風が思いのままに吹く如く、御自身のお心に沿って、この聖餐を囲む群れの1人〜に、聖霊を注いで下さるのです。

  U、聖霊に預かる為に
 では、私共は、どうしたら主のお心に叶い、聖霊を受け、主の臨在の恵みに預かって行く事が出来るのでしょうか?
 聖霊に預かる…それは”私共が〜したから聖霊が下って来る”というものではありません。”主イエスが聖霊を注ごうとされておられるから、私共は備える”のです。
 では、どの様に備えるのでしょうか?…それは”熱心になる”事ではありません。聖霊は、ペンテコステ以来注がれ続けているのです。私共が”聖霊を受けて行く生活を整える”それが”備える”と言う事なのです。
 聖霊を受けなくとも、キリスト教の解説者になる事は出来ます。しかし”聖霊を受けなければ,キリストの証人となる事は出来ない”のです。しかし聖霊を受けるならば”キリストが生きる力”となり”キリストが心におられる御方…心の主人となる”のです。そうして初めて、キリスト者は、力と命をもってキリストを伝える事が、献身する事が出来るのです。それが”キリストの証人”として生きる事なのです。
 ですから”キリスト者が聖霊を求めない事は考えられない事”なのです…しかし、私共が聖霊を求める時”その為に、どんな大きな代価が支払われたか!…を忘れてはならない”のです。ペンテコステにおいて、初めて聖霊を受けた弟子達は、どの様に聖霊を待ち望んだのでしょうか?…弟子達は10日間祈り続けたのでした。
 祈りの内に、十字架の大きさを、十字架の重さを知らされたのでした。つまり”十字架の,神の愛と,神の痛みと,神の献身”を深く知って行ったのです。そして、その十字架を前に,罪を探られ悔い改めたのです。隣人の真実な悔い改めを聞いた者達は、更に自分の罪に気づき悔い改めたのでした。悔い改めの連鎖の中、主にある兄弟姉妹に一致が生まれ、そこに聖霊が注がれたのです。
 私共は、聖霊を単純に力と考えてはいけません。聖霊は人格を持たれた神なのです。ですから、聖霊を求める時は、十字架の”イエス様の献身の愛”を、御子を十字架に献げた”神の痛みの愛”を深く心に留めなければならないのです…そして、そこにこそ、聖霊なる神が臨まれ,私共がキリストと共に生きる世界が生まれるのです。
 使徒言行録1:11「ガリラヤの人達、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」とございます。「また来て下さる」…この約束は”天に主イエスを見送り、約束を待ち望みつつ聖餐を囲んでいる教会に与えられている”のです。このペンテコステの朝、悔い改めをもって、心1つにして聖餐を囲み、自覚的に、その恵みの中に生かして頂く事を祈り求め,聖霊を待ち望んで参りましょう。そして聖霊により、キリストの証人として歩むキリスト者、聖餐を囲む共同体として歩む1年となるよう求めて参りましょう。