舟の学校
マルコ4:35〜41
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
   舟の学校
*この朝、私共に与えられている御言葉は、マルコによる福音書4章の35節からの箇所です。様々な譬えを用いられて”神の国”を説明された主イエスは、日が暮れてきた頃「向こう岸に渡ろう」と舟に乗るように促したのです。それは、先に譬えで語られた”神の国・神の力ある支配”を身をもって体験し”神に委ねる信仰を教えられる為”でした。私共は、先週出エジプト17章で、主がイスラエルの共同体に”シンの荒野に向かって出発する様に命じられた”事を通して”乾きの問題”は”旅立ちへ命じられた主の御目の前にあると信じる信仰の戦い”であったと学びましたが、同じ質の事が此処で起きたのです。舟に乗り込む事は”主イエスの御意志”であったのです。今朝は、この”嵐の中の舟の学校”の出来事から、主が教えられた”神の力ある支配に委ねる信仰”について学んで参ります。

  T、弟子達が乗らされた舟
弟子達は、主イエスの弟子として、主にお従いして舟に乗り込んだのです。この所から、主イエスを信じて従う事は”主と共に舟に乗る事”という1つのイメージが生まれて参りました。その様な訳で、教会と舟は深く結びついております。ある歴史のある教会では、説教壇が舟の形に造られているそうです。講壇の後ろの壁に、大きな舟が取り付けられ、帆まであるそうです。そして、そこに主イエスと、ペテロとアンデレが乗っており、その3人の間に説教壇があって、主イエスに説教の原稿が覗き込まれる様な形で、説教をすると言うのです。古いカトリック教会でも、会衆が座る1番広い所を”舟を意味”する言葉で呼ぶそうです。仙台キリスト教育児院も舟をイメージする形の礼拝堂でした。
 これらには”教会堂に来る事は舟に乗る”という考え方があるのです…”礼拝を献げる事は、主イエスと共に船旅をする事”なのです。弟子達が、主イエスに従い舟を出して間もなく、激しい突風が起こり舟が水を被って水浸しになったのです。その光景は、やまじ風を経験している私共には想像し易いと思います。弟子達が必死に水を汲み出していた時、頼りの主は船尾の方で枕して眠り続けておられたのです。
 主イエスは「人の子は枕する所が無い」と言われた御方です。なのに此処では、嵐の中、枕して眠り続けておられるのです。その姿は何を意味するのでしょうか?…それは”主は嵐の中でも枕する平安を持っておられた”という事なのです。
 「枕する所が無い」…それは”安住の地が無い”という事です。しかし”嵐の中での安眠”は、主には,安住の地が無くても、嵐の中でも、どんな中でも”安眠出来る平安があった”事を現しているのです。
 一方,酷い嵐に思い余った弟子達は、主イエスを起こし「先生、私達が溺れても構わないのですか」と言ったのです…これは危機の中、沈黙される神への”絶望の叫び”にしか聞こえません。しかし、マタイ書を見ますと”祈り”でもあった事が見えて参ります。
 マタイ8:25に「主よ、助けて下さい。溺れそうです」とございます。そこには「助けて下さい」との言葉が加わっております。この「助けて下さい」には”救って下さい”との意味がございまして…更に「溺れそうです」には”死にそうです”とか”滅びそうです”との意味もあるのです。
 主イエスの御側に行き「救って下さい。私は死にそうです。私は滅びそうです」と祈る…これは、正に”教会の生活・礼拝の生活”そのものではないでしょうか?
 夕方になり、不安を暗示する闇に、だんだん支配されて来た頃”激しい突風が起こった”のです。この所の”突風”という言葉を、マタイ書は,この出来事の意味を現す為”暴風”という言葉を敢えて用います。この”暴風”という言葉は、殆どの場合”地震”として訳される言葉なのです。正に,この時,海が地震の様に激しく動いたのでした。
 舟に暗示される教会は、決して強いものではありません。世の嵐の波に翻弄されるのです…戦争中、どの教会も風前の灯火でした。もっと戦争が長引いたり、日本が勝利して軍国主義が更に強化していたら、教会がどうなったか分かりません。
 私共1人〜も弱いのです。私など、キリスト者になり召されて牧師になっていながら、心深く傷ついたり、又、この度の大阪の小学生殺傷事件のニュース等をお聞きしますと、自分の事として取り込みすぎ、なかなか心を切り替えられません。この感受性の強さ,気の弱さは、長所・短所,背中合わせの私の性格だと思います…そうした弱さを持ったキリスト者が、教会という揺れ動く舟の中にいるのです…私共は,強く歩む事は出来ないかも知れません…しかし”主の平安に支えられつつ歩む事が出来る”のです。
 先程、この時の”暴風”の意味を”地震”という言葉で現したと申しましたが,聖書は
”地震”を”世の滅び”を現す言葉としても用います。”信仰が与えられた者”は、こうした”地震について敏感な心が与えられる”のです。”滅びに至るほころび”に”主イエスを悲しませるに至る事”に敏感にされるのです。その様な”滅びに至るほころび”を地震計の様に感じ取り”教会という舟の中で,主イエスの前に「救って下さい」と祈るのです。正に弟子達は,主に従い乗らされた舟で,嵐に出会い”神の力ある救い”を祈り求めたのでした。

  U、主イエスが乗っておられる舟
 こうして見て参りますと、弟子達の行動は、主の弟子として間違ってはいなかった様に思えますが、他の福音書を見ますと、主に「信仰の薄い者達よ」と叱られているのです。
何故、叱られたのでしょうか?…その原因は「私達が溺れても構わないのですか?」との弟子達の言葉に現れております。弟子達には”見えるものしか見えていなかった”のです。
 確かに、主は他の所で「芥子種1粒の信仰があれば良い」と言われました。しかし此処での「信仰が薄い」の”薄い”は”小さい=ちっぽけ”との意味の言葉が使われており…
”見えるものしか見ていない、ちっぽけな信仰”という事なのです。
 ”見えない御方を見つめる信仰”なら”芥子種1粒の信仰”しかなくても、主イエスは喜ばれ祝福して下さるのです。この”見えない御方を見つめる信仰が有るか無いかは、全てのキリスト者が絶えず試されている”のです。
 では、主イエスが、この”舟の学校”で教えようとされたのは、どんな信仰だったのでしょうか?…それは”舟に乗っておられる主を事を見つめる信仰”でした。
 湖に向かって「黙れ、静まれ」と神の権威をもって命じられ,自然さえも従わせる力を目の当たりにした弟子達が「非常に恐れて『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とございます…主イエスを指して「一体、この方はどういう方か?」と驚く…この事に、主イエスの教えの全てが集中しているのです。
 信仰とは何か?…それは”出来事の中で、主イエスを見る事が出来るかどうか?”なのです。困難な出来事の中に”主が眠っておられる事実を見る事が出来るかどうか?”なのです。
 私共は”嵐の中、枕して眠り続けておられる主に驚く”のです…主イエスは、神の力によって御旨を成し遂げる事のお出来になる御方です…主は、その力ゆえに平安の内、枕されておられたのです。嵐の中で枕する事は、嵐が嵐ではない事を、滅びが滅びでない事を”沈黙の内に語っておられたのです。この主イエスの沈黙のメッセージを見つめませんと、目の前の問題だけが大きくなって来て、信仰がちっぽけに成ってしまうのです。この”嵐の危機”は”主に従って出会った危機”なのです…イエスの御旨は、嵐等で崩れてしまうものではありません。  主は、嵐の中、枕して眠り続ける、私を見て驚いて欲しい”嵐の中、眠る事が出来る私に,平安を支える神の力を見て欲しい”と、この”舟の学校”で教えておられるのです。
 主イエスは、救いを求める土居教会という舟に、私共の人生という舟に乗り込んで下さっておられるのです。今朝の聖書を通して私共は、私共の舟に乗り込んで下さっている主が
”平安の内に眠っておられる”事実に目覚めたのです。これから私共は”確かで大きな〜主の眠り(主の力ある平安)に支えられて、主に委ね、神の国の力を体験して生きて行く”のです。