神の国
マルコ4:26〜34
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      神の国

*今、教会の周りは田植えが真っ盛りです。今朝の聖書の箇所は、からし種の種蒔きのお話ですが、この”からし種の譬え”は、”神の国”について語られた、主イエスの最後の”譬え”なのです。”神の国”…それは、イエス・キリストが、愛と力とを持って支配なさる所です。その、主イエスと共に生きる世界という”神の国”は、罪赦され、救いに預かった者の心において生まれ、そうした者達の共同体である教会に於いて、成長し体験されて行くものなのです。今朝は、その”神の国に生きるとはどういう事なのか?”を学んで参ります。

 T、神の国が生まれる心
 主イエスは、その目に見えない”神の国”を、日常生活を題材にして…”農夫の生活”を通して語られました。農夫が土に種を蒔いた後は、基本的には収穫まで天候任せです。
 この”任せる”という事を、26節の「夜昼、寝起きしている内に種は芽を出して成長するが」の”夜昼”という言葉から学んで参ります。私共は、普段1日を”昼夜”と表現致します。なのに聖書は”夜昼”と記すのです…何故なら、ユダヤの人々は、1日を”日暮れと同時に始まる”と考えていたからですが…日本人には、どうもピンと来ません。1日中働き、やれやれと床に入って1日が終わる…そして夜明けと共に、今日も頑張ろうと起きる。これが日本人に染み込んだ1日です。しかし、此処では、眠りに就く事から1日が始まっているのです。「さあ、新しい1日が始まった。お休みなさい」と言うのです。
 それが、何故”委ねる事につながる”のでしょうか?…それは”不安を抱えたままでは眠れない”からです。私事ですが、この土居教会に参りまして、今、幸せを噛みしめております。それは睡眠障害から癒されたからです。人は眠れる所で生きて行く事が何よりも幸せであると実感しております。”人が安眠出来る時”と言うのは”心の底から神様にお委ね出来ている時”ではないでしょうか?…自分の働きの実りを、神様にお任せして床に入る所から、新しい1日が始まると言う感覚は”神様と共に生きる者の感覚”なのです…その様な”主イエスに委ねる心”…それこそが”イエス様と共に生きる、神の国と言う世界をもたす”のです。

 U、神の国を育てて下さる主
*28節に「土はひとりでに実を結ばせるのであり」とございます。”ひとりでに、何かがなされて行く”事は不思議な事です。この”ひとりでに”と言う言葉は、英語の”オートマティック(自動的)”という言葉の語源になったギリシャ語の”アウトマティー”が使われており、”人知を超えて、背後で働かれる神の御業を現す言葉”なのです。穀物を土が育て、それを人が食べて生きる…この不思議な自然の摂理は神様の御業だと言うのです。
 その代表的な野菜として、主イエスは此処で”からし種”をあげられました。この”からし種”はブラック・マスタードの事で、直径は1oもない小さな種ですが、ぐんぐん成長して5m程に迄成長するのだそうです。どんな小さな種にも命が宿っており、大きな木に成長して実を結ぶ様に、どんな人でも”主イエスを信じる時、神の命が与えられ”主イエスの力によって、心の中で”神の国が生まれ,成長し始める”のです。主イエスは、神の国に預かった者に対し”御言葉と共に、力をもって働いて下さる”のです…そうした中キリスト者は、キリストの愛と力による支配を体験し、心の中の神の国が育ち、神を畏れ、神を愛する人とされて行き、その結果…”主イエスの御前に大きな〜意味ある人生とされ、豊かな実を刈り取る人生となる”のです。

 V、神の国に生きる
 所で、何故主イエスは具体的な言葉で”神の国”を説明されなかったのでしょうか?…それは、神の国は、見えないもので頭に描けないものだからです。この譬えを聞いた人々は農作の話は理解できても、具体的な神の国のイメージ迄には至らなかったと思います。
 34節に「譬えを用いずに語る事はなかったが、御自分の弟子達には全てを説明された」とあります。キリストの弟子になった者…即ち、キリスト者に対し、主イエスは”神の国を伝えられる”のです。
 キリスト者の心には”神の国”がございます。それは、とりもなおさず
”キリストに心を支配して頂いている”事なのです!…故に”キリスト者は聖霊によって”自分の思いを超えて”主のお心を知る者とされている”のです。
 神の国に生きる…それは”主イエスのお心を知り、主に導かれて歩む事”です。預言者イザヤは国家的な危機の中、イザヤ30:20-21で「我が主はあなた達に/災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方は/もはや隠れておられる事なく/あなたの目は常に/あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く『これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け』」と主にあって語りました…危機に埋もれるのではなく,背後で守り導いて下さる主を知っていたのです。
 初めてのお遣いという番組がございます。小さな子供が初めて遠くにお遣いに出かける。街行く人に変装したカメラマンが、子供を追って行き、親は映像をハラハラしながら見守るというもので、子供のけなげな姿と、それを見守る親心に何時も泣かされてしまいます。 主の御支配も、そうした親心で、私共を見守りつつ、こちらに進みなさい、立ち止まりなさいと導いて下さる御支配なのです。
 更に、神の御支配は、心の傷を癒し、イザヤの様に,危機の中でも,主への信頼と希望を持つ事が出来る様にして下さるのです。先のイザヤ書の続きの30:26 に「主が民の傷を包み/重い打ち傷を癒される日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる」とございます。
 私共は心に傷を負っているのです。傷を負っているから、心が狭くなり、愛する事が出来ず、希望をも持てず、まるで神を信じていないかの様に心配の奴隷とされるのです。
 そして、そうした心の深い傷を癒す事がお出来になる方は、主イエス・キリストによる他ないのです。どんなカウセリングも、心の底の深い〜傷を癒す事は出来ないのです。
 先の、祈祷会で素晴らしいお証をお聞きする事が出来ました。心の深い〜傷にイエス様が触れて下さって癒されたと言うお証でした。 イザヤは「月の光が、太陽の7倍の光となる」と言いました…これは、危機の中の弱々しい希望の光が、溢れるばかりの希望に変えられる事なのです。その様な”望み”れは”神様の御支配の力を経験する中で、沸き上がって来るもの”なのです…そんな”神の国を私共に実現する為”に農夫が為を蒔くのです”イエス様が種を蒔く”のです。いえ”イエス様御自身が種”なのです。
 イエス様が34節で「御自分の弟子達には、密かに全てを説明された」とある”密かに説明された事”の内容は「十字架と復活」なのです。イエス様の”十字架と復活こそが、神の国を私共に実現するもの”なのです。キリスト者は、十字架と復活から、神の国を体験して行くのです…その様に考えますと、後のパウロの宣教が、主イエスの様に”神の国”を伝えるのではなく”私は十字架の主を伝える”と成って行った訳が分かって来るのです。
 十字架で罪赦された心に主イエスが御臨在下さり、復活の命によって、心の傷をお癒し下さり、主イエスが心の主となって、支え、導いて下さるのです。
 十字架で悪の権力に屈して、地に落ちて消された…小さな”からし種”の様に見えたイエス様、しかし、神様は、種が地で死んで、その破れから、新しい命の芽を出す様に”神の力をもって死を滅ぼし、主を甦らせ、救いの道をお開き”下さったのです。
 また誕生したばかりの教会も、からし種の様な小さな存在でした。しかし、迫害に継ぐ迫害の中、滅ぼされたかに見えながら、やがてローマを転覆させ公認されて行ったのです。教会の歴史…それは、主に支えられ、主に導かれた、神の力の歴史なのです。
 土居教会という主の共同体も、からし種の様な小さな者かも知れません。しかし、キリストの支配の中,与えられたキリストの心で、私共の教会が1つに結ばれ、神の国として支え合い、仕え合う事を喜び、主イエスの生ける御支配に導かれて行く経験をするのです。この朝、共に主イエスを見上げ、心の癒しと支えを求め、再び主イエスの「右に行け左に行け」という導きを、神の国に生きている喜びに生かして下さいと祈りましょう。