神の真実
エレミヤ31:1〜3
31:1 そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
31:2 主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は/荒れ野で恵みを受ける/イスラエルが安住の地に向かうときに。
31:3 遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。1


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      神の真実

*今朝、私共は、出エジプトと、十字架を通して、神様は”神の真実”を持って、私共を愛し守り導き抜かれる御方である事を学んで参ります。
 このエレミヤ31章3節に「私はとこしえの愛を持って、あなたを愛し…」とございます。 この”愛”という言葉は、原語のヘブル語では”ヘセド”と言う文字が使われております。この”ヘセド”は、愛を現す幾つかの言葉の中で”契約の愛”を現す言葉です。”変わらぬ神が、私共を永遠に愛し抜いて下さる”という誓いの言葉”なのです…神は、そうした”御自身を,歴史に於いて証するモデルとしてイスラエルを選んだ”のでした。
 イスラエルの民は、何度も〜神に背き堕落しましたが、その度毎に神様は、彼等の罪を示しつつも、赦し、愛し、導かれたのです。イスラエルは、最も弱く小さな国でした。しかも立派な民でもありませんでした。ただ”唯一の生ける神を信じていた”のです…自分達だけの力では決して存在し続けて行く事の出来ないイスラエルの民を通して”神様は御自身を現された”のです。何時の時代も強大な敵国に囲まれながらも、生き延びて行くイスラエルの姿に、世界は”共におられる神を見た”のです。その歴史は四千年にも及ぶ世界最古の国で、存在自体が生ける証なのです。主イエスの死後、一端は滅びましたが、二千年後に復興した事は、20世紀の10大ニュースの1つとされております。
 1節に戻ります「その時には、と主は言われる。私はイスラエルの全ての部族の神となり、彼等は私の民となる」とございます。
 神様が私共を”私の民”として下さるのが”その時”なのです!…今朝の、聖書の箇所から”その時”を見て参りますと…第一には”2つに分裂していたイスラエルの北イスラエルが、アッシリアから侵略され、捕囚とされた地から帰って来た時”であります。第二には、2節の「剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」から”出エジプトの時”をも指している事が分かります。第三に、3節に”とこしえの愛をもって”とある事から”十字架から現在に至る迄の教会時代”を指しているのです。今朝、私共は、出エジプトの時、十字架の時から”真実に、私共の神と成り続けてくださる神の愛”を学んで参ります。
T、出エジプトの時
*出エジプトはBC1290年の出来事です。出エジプトは、十字架とキリスト者生涯のモデルと学んで参りました。イスラエルの民を引き連れてエジプトの国境迄来た時、モ−セ達の目前には、紅海が横たわっていたのです…それは、絶体絶命のピンチでした。しかし、モ−セが主の言葉に従い、手を海の上に差し伸べた時、神は強い東風を起こし、海を2つに分けられたのでした。
 そこを250万人以上が1晩の内に渡ったのですが、もし2列縦隊にしたら、東京〜四国間の距離になり、35日はかかったであろうと言われます。
 相当の広い幅で海を分けられたのです。そして彼等が渡り終えた時、追って来たエジプト軍は、海の藻屑と消えてしまったのでした。
 神の導きは、キリスト者生涯に例えられる荒野で顕著に現されます。250万以上の民を40年間、砂漠のど真ん中で養われたのは大変な事だったのです。
 宿営の広さは、1辺土居〜今治間の広さ、食料は、今も少しは降るそうですが、マナ(蜂蜜の混じった煎餅の味)を天から降らせられました。その量は、1日1500tで4qの貨物列車分でした。しかも、約束の地、目的地であるカナンに入ったらパタッと止んだのです。水は、1日50万リットル=タンク貨車で300qに及ぶ水を、神は雲の柱、火の柱をもって水脈の上を導いて与えられたのです…これらの費用は現在のお金になおすと、1日600万円、40年で690億円にも成るそうですが、これは生きておられる神様の、現実に働く真実な導きなのです!
U、十字架の時
*そして”私の神となって下さる”と言う”神の真実”が最も現されたのは”十字架の時”でした…神の時が満ちた時、神は1人子イエス・キリストを地上に送って下さり…死の恐れや、罪や、悩みと言う重荷、更に心の傷の奴隷と成っている私達を救う為、十字架によって救いの道を開いて下さったのです。
 新約聖書の中に、親を失い、兄弟が心と力を合わせて生きていた、マリヤとマルタと、ラザロの家を主イエスが愛され宿泊された事が記されております…その兄弟のラザロが死んだ時、涙に暮れるマリヤとマルタを見て激しく感動され、墓に入って行き死後4日も経って、臭くなり始めたラザロに向かい”ラザロよ出て来なさい”と叫ばれ、ラザロを蘇らせたのでした。
 この時のイエス様の”激しい感動”と言うのは、一体何だったのでしょうか?
@愛する者の死と言う”死の悲しみへの怒り”でした!…永遠の命を与える事がお出 来になる主も、しばしのお別れになる死への感情を共に痛んで下さったの です。
A死の滅びを打ち破る為の”十字架への武者震い”だったのです!
 家内が長女を帝王切開で出産した時、看護婦さんに部屋に呼ばれて入ると、看護婦さんが、震えていた家内を指して「奥さんは母親になる武者震いをしているんですよ」と言われました…命をかけた決意を人がする時、武者震いするのです!…その時主イエスも十字架に立ち向かう武者震いをされたのでした!
 死の滅びは罪の結果だと聖書は告げます。滅びである死が、天国への希望と成る為には、罪が赦されていなければならないのです…そこで、神は罪人の身代わりになる事がお出来成る、ただ1人の罪無き御方イエス・キリストを、私共の身代わりに十字架に架け、天国への道を開いて下さったのです。イエス様御自身も、十字架に架かっている御自身を、呪い唾をかける者に対して「父よ彼等を許し賜え、彼等は今何をしている分からずにおるのです」と祈られました…正に、そこにこそ、神に背く者を愛し抜く、愛すると約束した者を愛し抜かれる、真実な神の愛があるのです!…主イエスの武者震いは、この十字架への献身の武者震いだったのです。
 エレミヤ31:3に「私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わる事なく慈しみを注ぐ」とございますが、この神の真実な愛を思う時、”アッチャン”と呼ばれる今30歳位の青年を思い出します。彼は、私が加古川教会で牧会をしていた時代、家内が育った豊中教会に何度か招いて頂き、そこで出会った青年です…彼は水痘症で知的障害児でした…しかし、彼の心はイエス様の愛を理解する力があり、教会が嬉しくて〜日曜は朝の5時から来て、何時も礼拝堂の一番前で喜び一杯に賛美しておりました。お祈りも的を得、御言葉を覚える事にかけては誰にも負けず、更に人にも迷惑をかけず(聖霊の助け)、教会の祝福の基に成っているのには驚きました…更に、主治医の先生方も「この子は、神様に守られていますね…信仰を持っていますか?…洗礼を受けています…やっぱり」と言われたと言う事でした。4年前、弟の結婚式で大阪に行った時、家内が育った町を歩きながら”アッチャン”の話をしていたら、施設の車に乗った”アッチャン”が気付かずに通り過ぎて行きました…合わせて下さった神様に感謝したのを思い出します。更に、昨年、お母様が受洗の恵みに預かられたのです。
 私はアッチャンを思い出しますと「とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わる事なく慈しみを注ぐ」と言われる神の真実を思います…私共の人生も荒野の旅です…様々な困難の中で、歴史を通して真実に働かれた神様が、私共に対しても、十字架の真実で導いて下さるのです。
”主イエスと共に十字架で苦しまれた聖霊なる神様が、神の裁きを受けざるおえない”罪というものの恐ろしさ”を十字架の体験として知り、私共を悔い改めへと導き、主イエスと共に歩める様にして下さるのです。更に、私共を永遠の滅びより救おうとされ”十字架に架かり続け、苦しみを舐め尽くして下さった…主イエスの壮絶で真実な愛”を知り尽くされた聖霊が、私共と共におり、その愛で愛し抜いて、慈しみを注いで下さる、そんな神の真実な愛を人生において経験して行く事が出来るのです。