柔和な王  説教者:千葉聖子
     
マタイ21:1〜10、2001、4/8

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


     柔和な王  
            
 本日から、受難週に入ります。そして、今日は「棕櫚の主日」とも言われます。 それは、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城された時、群衆が棕櫚の枝を持って歓喜の叫び声を持って、迎えた事から言われるようになりました。
ここから、いよいよ主イエスの十字架への一週間の歩みが始まるのです。
そう言った意味でも、主イエスにとって、この日は特別な日でもあったのです。
 今朝は、柔和な王として、エルサレムに入城された、主イエスの柔和さが十字架の救いをもたらして下さった事を学んで参ります。

T、王として入城された主イエス
 5節を見ますと、「主イエスは王としてエルサレムに入られた」とあります。
 この福音書の記者マタイは、主イエスを王として描いております。1章の系図はダビデ王の子孫としてお生まれになった主イエスを記し、東の国の博士達が、ヘロデ王の所へ行って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでですか」と尋ねています。また、21:5でも「お前の王がおいでになる」と、旧約の預言を引用して、「主イエスは私達の王だ」と記しています。主イエスが十字架に架かられる時も、27章を見ますと、主イエスを十字架の架けようとする兵士等が、赤い外套をかけ(これは、厳密には赤紫で王の色とされていました)、王冠の代わりに茨の冠をかぶせ「ユダヤ人の王万歳」と侮辱しました。また主イエスの十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤ人の王」でした。 
 この様に、マタイは”主イエスを王として描いた”のですが、それは武力や権力を持つ王としてではなく「柔和でロバの子に乗った王」として、「十字架で死なれる王」として描いたのです。
 
U、柔和な王として
 主イエスは、王として群衆の歓喜の中、エルサレムに入城されました。
この時、殆どの民衆の支持がこの主イエスにありました。王になろうとしたら
本当に王になれた時でした。主イエスが公生涯に入られる時、荒野で「私を拝んだら、この世の王にしてあげよう」とサタンの誘惑を受けたのは、この時の事だったのです。
 ある大学の学長に、全く意図していなかったのに選ばれた方が、学長になって暫くして友人にこう言ったそうです。「学長というのは偉いもんだね。こんなに偉い人間になるとは思わなかった。学長にはこんなに権力があるものとは知らなかった。その事が良く分かった。本当を言うとね、権力があるという事は楽しい事だ。自分の思い通りの事が、ここではできるという事は、今迄味わった事のない快感だね。怖い事だ」と言ったそうです。
 多くの人が権力を持ちたいと思っています。また、王になりたいと思っています。主イエスにとって、まさしくこの時ユダヤの王として立つ事ができたのです。
そして、それは民衆の望んでいた事でした。
 しかし、主イエスの思いと、群衆の思いには大変な開きがありました。
主イエスは「柔和な御方として、ロバの子に乗って」エルサレムに入られました。その、主イエスの柔和さは、どの様に表されたのでしょうか。
 当時ロバは”愚か者、値打ちのないもの”の代名詞であり、役に立たない人の事を「あいつはロバの様な奴だ」とバカにしたそうです。そのロバの子をあえて選ばれた、ここに主イエスの”柔和、優しさ”が現されています。
 また、預言を成就するという”主イエスの従順に表された柔和さ”でもありました。
5節の御言葉は、ゼカリヤ書9章9節の御言葉の引用です。そして、この預言はメシヤが、具体的にどの様に来られるかが書いてあるのです。ですから、その通りのお姿でエルサレムに入城された主イエスを、群衆は「私達を救ってくれる王様が来た」と言って、喜んでお迎えしたのです。
 しかし、それはローマの支配から解放してくれる、改革者としての力ある王を期待しての事だったのです。
 群衆は主イエスを「ホサナ、ホサナ」、万歳万歳といって、棕櫚の枝や自分の上着を道に敷いて出迎えました。
 やがてこの群衆は、主イエスが、自分達が期待していた「ローマの支配から解放してくださる改革者」ではない事を知って、失望し、裏切られたと思い「イエスを十字架につけよ!」と叫ぶ群衆となって行くのです。
 ユダヤの人々は主イエスを真に理解出来ずに、自分達を解放してくれる王として主を迎えました…その誤解が主イエスを十字架につける迄に至ったのです。
 主イエスは、その様な群衆の心を知っていながら「ホサナ、ホサナ」と言って迎える、群衆の間違った期待を受け入れられたのです。
ここに主イエスの柔和さがあるのです。それは深い悲しみを伴った柔和さでした。

V、十字架に現された柔和
 十字架上で主イエスは、7つの言葉を言われました。マタイはその中のたった1つの言葉だけ記してます。27章45節に、十字架上で主イエスが「我が神、我が神、なぜ私を御見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたとあります。
 主イエスは、理解されず、誤解されたまま、十字架に向かわれました。群衆や周りにいた人々から、侮られ罵られながら十字架に架かられ、そして神にも捨てられるという、未だかつて誰も経験した事がない、恐怖と痛みという苦しみに遭われたのです。
 「柔和」という言葉には「痛めつけられる」という意味があります。まさしく主イエスは”神に捨てられる”という、痛みを通して、柔和さを全うされたのです。
 柔和な王としてエルサレムに入城された主イエスは、痛みと孤独の中で十字架に架けられた王となられたのです。
 しかし、それは”救い主である王の姿だった”のです!…柔和な王は、救い主なる王でもあるのです。
 イザヤ53章11節に「彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する」(口語訳)という御言葉があります。主イエスは十字架上で、神から捨てられる、という恐怖と苦しみだけを見ていたのではなく、そこに神の救いが全うされた、と光を見て、満足していたというのです。十字架の苦しみの中、私達の救いをそこに見て、主イエスは喜んで下さっていたのです!…
 私達は、受難週のこの朝、この救い主なる柔和な王を王としてお迎えするのです。今日から始まる受難週、十字架に架かられた柔和な王としての主イエスを
思いつつ、この御方を私の王としてお迎えしていきたいと思います。