マラとエリム
出エジプト15:22-27、ロ−マ8:17-18。2001、4/29
出エジプト15:22−27
15:22 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。
15:23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
15:24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
15:25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
15:27 彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。
」
ロ−マ8:17−18
8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
マラとエリム
神様の偉大な力を見たイスラエルの民達は、タンバリンを打ち鳴らし、踊りを踊りながら、聖書中、最古の歌と言われる讃美をしたのです。こうした中、イスラエルの民は、エジプトと紅海を後にして、シュルの荒野に向かって旅立ちました。
しかし、目の前も見えなくなる砂嵐、白い石灰岩の平原からのギラギラした照り返しは想像以上にこたえ、皮袋の水も忽ち熱くなり喉を潤さなくなりました。やがて海は遙か後方に退き、一面荒野となり、夜になると明日への不安が芽生え始めたのです。
3日目,22節に「荒野を三日の間進んだが水を得なかった」とあります様に、持って来た水が底をついてしまい、感謝と喜びは消え失せ呟きが唇から出のです。
水が尽きたイスラエルの民の目は、オアシスがないかと地平線に釘付けとなりました…そんな1日も終わろうとした頃、遙か彼方にオアシスを見つけたのです。
そこは、マラという地でした。彼等は、内心、不信仰を口にしなくて良かったと思いつつ、モ−セへの信頼を口にしながら、歓声を上げて泉に走ったのです。しかし、我を忘れて水を飲んでいた、民の動作と表情が固まったのです…水が苦くて飲めなかったからでした。この苦い水は、塩水ではないかと推測されております。
水が1滴も手に入らないと分かっている間は、我慢するよほか仕方がありません。しかし、喜び、安堵し、緊張の糸が途切れた時、一気に絶望に落とされるという事は耐えられなかったに違いありません…そんな中、イスラエルの民は24節に「民はモーセに向かって『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」とある様に、彼等は、たった3日で神の御業を忘れ不平を言ったのです。
イスラエルの民は”此処で主に祈るべき”でした。しかし、神に祈らず”人に愚痴を漏らした”のです。しかし”モ−セは主に向かって叫びました”…此処が、モ−セと民との違いでした。
しかし、イスラエルの民の信仰の軽薄さを批判する事に、私共は慎重でなければなりません…何故なら、キリストとの生命の通った触れ合いの喜びや、救いの喜びは、心構えしていない困難に出会う時、失望に変わってしまう事は、全ての者が持つ弱さであるからです…モ−セも民と同じ様に感情的には失望したと思うのです。
主に最も近く居た弟子達も同じ弱さを持っておりました。主イエスが2匹の魚と5つのパンで5千人を養われる奇跡を行われ、それから程なくして、同じ様にして4千人を養う奇跡をも行われたのです。弟子達は、それらを目の当たりにしていたにも拘わらず、パンを忘て舟に乗り込んだのに気づいた時、パンが1つしかないと議論しあったのです。そんな弟子達に対して主イエスは「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか…『まだ悟らないのか』」と言われたのです。
この「まだ悟らないのか」の”悟る”は”かつての問題”と”今の問題”が”信仰によって結びつく事が分からないのか?”という事です。 かつて経験した神の御業と、現在の問題を重ねて見ない者は、3日路の荒野で信仰を失ってしまうのです。
過ぎし週は、妹さんを亡くされたO姉や、浴室で倒れられたU兄の事で祈りつつ歩みました。U兄は、以前にも脳梗塞でお倒れになられたので心配致しました。幸い今回は、その面では大事に至らずに済んでおられますが、肺炎で入院されております…そうした中、ご本人が、その脳梗塞の再発を1番心配さてたのではないかと思います。 私は、この御言葉を前に、祈り思い巡らしておりまして、前にもU兄を回復させて下さった主は、今回も必ず回復させて下さると思わされました。勿論、大事に至らぬ様に、最善の御注意を払って頂きたく思いますが、共に主を見上げて参りたいと思います。
荒野は、私共の”信仰の学校”なのです。”永遠の命に続く将来の為”に”主が許された訓練の場”なのです。ロ−マ8:17〜18に「もし子供であれば相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。現在の苦しみは、将来私達に現される筈の栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」とございます。
私共は、天国に至る器となる為に、キリストと共に苦しんでいるのです。キリストの御目の前で苦しんでいるのです。キリストも共に苦しんで下さっているのです…これらの事を理解する時、何故、神様が40年もの長きに渡って、荒野でイスラエルの民と苦しみを共にされたのかが見えて来るのです…天国に辿り着いた者の中に、マラの苦い水に涙した経験の無い者はいないのです。
主と共に苦しむと言う、マラの中で私共が学ぶ信仰は”従順”です。26節に「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に叶う正しい事を行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である」とございます…主は、従順な者に、祝福を与えると約束して下さったのです。
主は、失意の中でも、従順に主を見上げたモ−セに対し、1本の木をを示され、それを泉に投げ込む様に導かれたのです…その時、苦い水が甘い水に変わると奇跡が起こったのでした。
モ−セの従順に対する祝福として与えられた、この木は、キリストが死に至る迄、従順に歩まれ架けられた木である、十字架を現していると言う霊的解釈もございます。キリストは十字架によって、死に対して永遠の命を、裁きに対して赦しと言う祝福を開かれたのです。
マラで一休みした後、彼等が向かったエリムの地は、一転して12の泉と70本のナツメヤシが生い茂る恵みの地だったのです。12の泉は12部族全て…即ち”主は神の民を完全に満たす方である事”を現しているのです。
私共の”信仰の旅路にも、マラの失望と、エリムの安息と慰めがある”のです。ヨセフは、牢獄の中でマラを経験し、やがてエジプトの総理大臣になってエリムを味わいました。モ−セも、ダビデも、エリヤも同じです。私共がマラを経験する時、その先には、必ずエリムがあると信じ、マラの中を従順と祈りをもって歩める様に祈りましょう。